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【小説】『叫び』

味噌汁の味噌が薄いと、椀を突き返した男。

時代と場所を間違えたかのようなクソ親父の態度に虫唾が走る。

しょんぼりした女の項に、男の罵声は続く。

おまえは何もできないだめなやつだ。

聞く気がないから、直す気がないから同じ失敗を繰り返すんだろう。

おまえの味噌汁は、何回言ってもまずい。即席味噌汁の方がずっとマシだ。

女は身を硬くして、忍の一文字を刻むように、ひたすら黙って男の怒鳴り声を浴び続けている。

こういう時、弟は顔をひきつらせて黙り込んでしまう。女の姿勢をまるでコピーをするかのように、俯いて固く閉じこもる。

たぶん、それが普通の子供だろうなと思う。怖いものから逃げられない時、身を守るために、貝のように黙って防御の姿勢をとる。

私は、男が怒鳴っている間も、女が投げつけられた食事を拾って片付けている間も、周りと関係なく食事をし、食べ終わったらば、「ごちそうさま」と言って席を立つ。

女の手伝いをしようとしたことも、女を庇うことも、慰めることもしたことがない。

男と、女を一緒になっていじめることをしない代わりに、男を諌めることもしない。

私は私の世界を生きている。生きるしかない。

気分の悪い空気。気分の悪い言動に嫌になって、食事を残したまま席を立つこともある。

見たくないものは、見たくないのだ。

正確には、女は私の母ではない。弟は女の連れ子だ。

よくこんなクズと結婚までしようと思ったものだと、私は女に対して冷ややかに思う。私の母はこのクズが原因で精神を病み、私をひとり置いてこの家を出ていったというのに。

どんな口車に乗せられたのか、どんな甘いことを囁かれたのか知らないが、みんなみんなバカだ。

女もバカなら、弟もバカだし、言うに及ばず男は大バカだし、何もやらない私もバカのひとりかもしれない。

その日も、夕飯時に遅れてテーブルにやってきた男が、女の作った料理に文句というより、くだらないいいがかりをつけて女をなじり始めた。

自分は菜箸のひとつも握らないくせに、しゃもじのひとつも取らず飯の量が多いだの少ないだの。

おまえは要領が悪くて本当にバカだ。

酒でも入っているのか、いつもよりうっとうしく、くだくだと同じことを言い続ける。

弟はスイッチが切れたロボットのようで、箸を持った手を膝の上にぽとんと落とし、身動きひとつしない。

こんなはずじゃなかった。

こんな思いをするはずじゃなかった。

新しいお父さんがこんな人だなんて。

弟の小さな体は貝のように黙って何も訴えないけど、小さくにじみでてくる悲しみが、苦しみが、哀れだった。

私はアジの干物をホクホクと箸でほぐし、ぽいぽい食べる。味はしないがまずくはない。脂ぎった額に皺を寄せて、アジの干物をこねくりかえすようにいじりながら、嫌味をネチネチ繰り返すこの男が、本当に自分の親かと思うと、むやみやたらと苛立った。

「あやこはまだいいやつだった」

あやこというのは、私の実母の名前だ。

しみじみと男は言った。

「あやこくらいなら我慢ができたのにな」

「あいつは鬱だか、なんとか言って逃げ出した。バカなやつだ」

男はくちゃくちゃとアジの干物を咀嚼しながら、せせら笑った。

何かが私の中でブチ切れた。

どの口がそれを言う。

どの口が、どの口が、どの口が。

お前のせいで、私は母親を失った。私は置き去りにされた。私は、私は、私は……。

マグマのようにドロドロと渦巻いていた、苛立ちのような、虚しさのような、寂しさのような、行き場のない怒りが吹き出すようにして、突発的に私は叫んでいた。

「黙れ!」

自分のことになると、怒りを噴火できる身勝手さに、どこか遠いところで自分が己を嘲笑うのを感じた。

小さな弟が恐怖に耐え、女が毎日苦しむのを見ながら、平気な顔していたくせに。

ぽかんとして男が私を見た。

私はテーブルに箸を叩きつけ、椅子を蹴立てて立ち上がる。

「何が、あやこはいいやつだった、だ」

ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな。

いいやつなものがあるものか。

あんなやつ。私を置いて出ていったあんなやつ。

でも、あんなやつでも、私にはたった一人の母親だったのに。

それを奪ったのは、誰だ。ーーこの男だ。

「あんたが、追い出したんだろう! ふざけるな!」

頭の中が怒りで塗りつぶされていく。嘲笑った自分をもかき消すほどの怒り。その後の自分がとるべき行動が、コマ送りのように細かく予想ができた。

飲んだくれの、こんなしょぼくれた男に、負ける気がしなかった。

「なんだと、わかったようなこと言いやがって。おまえこそ黙ってろ」

男がむっくりと、私に対抗するように立ち上がる。

体格差では負けている。だから、体は少し引いて、体重を右に落とし、右の肩を斜め後方へ。そして反動をつけて、右手のひらを男の顎に向かって、思いっきり突き出す。

突然のことに、男が白目をむいて、椅子ごと後ろへひっくり返った。

「ふざけるな!」

目を白黒させている弟と女を尻目に、私は家を飛び出す。

悔しくて、虚しくて、腹が立って、悲しくて。

何もかもどうでもいいような気分で、私は行くあてもなく走りながら、夕闇に叫んだ。

こんな世界なんて、滅びればいいのにと思いながら。

響いているのは、泣きそうに母を呼ぶ私の声だけ。

【今日の英作文】
「尊敬はできても、好きではない。」
"I can respect them but I can't love them.''

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