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六本木「Sushi Bar Mugen ∞」店主 irugo(イルゴ)をご紹介させてください!

こんにちは。
恵比寿で「顕 -ALAWA-」というスナックと六本木で江戸前鮨店「Sushi Bar Mugen ∞」を営んでおります、株式会社ALAWAの宇佐美と申します。
記事を開いて頂き、誠にありがとうございます☺

かなり遡り…前回の投稿でご紹介させて頂きましたが、去る3月26日、六本木一丁目に「音楽×寿司」をコンセプトにした予約制江戸前鮨店「Sushi Bar Mugen ∞」を開店致しました。

☟前回投稿記事

オープンしてからあっという間に8カ月が経ちまして、改めてこの場所での新たなチャレンジに、確固たる自信とやりがいが溢れ漲っています!

10/1(土)をもちまして、Mugenの店主であり板前の小栗陽介が、お店での呼び名を「irugo(イルゴ)」というニックネームに統一致しました。
中々癖のあるアクションですが、ざっくり最短距離で解説させて頂きますと、彼の敬愛するアーティスト「Nujabes」に倣って、小栗の「oguri」を逆から読ませて「irugo」と表現しています!

今回は改名記念に彼のキャラクターを皆様に是非知って頂きたく思い、インタビューを敢行しました。

このコロナ渦に新進気鋭の新店舗は続々と開店し、特に東京都内の鮨店はますます群雄割拠の様相を呈しています。「TOKYO寿司戦国時代」を迎えているといっても大げさではありません。

Sushi Bar Mugen ∞では
「皆様が気取らず、少しでも楽しんで頂ける鮨屋であると共に、次にお越し頂いた際にほんの少しでも『前回より美味しくなった』と感じていただけるようなお鮨をご提供する」
というスタンスで、irugoが心を込めて一貫一貫握っています。

「Sushi Bar Mugen ∞」店主 小栗陽介 改め irugo(イルゴ)

こだわりの味はもちろん自信をもって美味しいと胸を張れますし、彼のキャラクターに私自身一目惚れし弊社の事業にジョインしてもらった経緯があります。
生い立ちから現在に至るまでを掘り下げたところ、しっかり目の容量になりました。
この記事を通して是非、irugoの人柄を皆様に知って頂けますと幸いです!

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1.生い立ち「グッチ裕三のレシピ」→ 沖縄の居酒屋


Q:今日はよろしくお願い致します!

irugo:よろしくお願いします!

Q:はじめに、生い立ちを教えてください。

irugo:生年月日が1991年10月28日ですね。生まれは新小岩の病院だったんですが、千葉の佐倉の実家で0歳から小栗家の兄弟の四番目として育ちました。
お姉ちゃん、お姉ちゃん、お兄ちゃん、僕ですね。

young irugo

当時から料理が好きでした。学校から帰ってきたときに仕事で家に親がいなかったので、僕が小学生の頃は夕ご飯を作って準備するのが好きで。「ありがとう」とか「おいしい」と母に言われるのも好きでした。
なので、この頃に何となく料理の道に行くことを決めていたのかもしれないですね。

Q:料理は誰かから習っていたんですか?

irugo:NHKのグッチ裕三さんの料理番組が大好きでした。一番感動したのは「豚キムチ」で。ショウガ、ねぎ、にんにくをごま油で炒めてから豚肉を炒め、市販のキムチを入れて、オイスターソースで味付け、最後に火を止めて卵黄を入れる。それを初めて作ったら超美味しくて。それが料理に目覚めたきっかけかもしれません。グッチ裕三さんのレシピは大好きでしたね。とっつきやすい作り方だったし、あるタイミングで炒めると味がとても変わることとか、料理の面白さを感じた場面でした。

あとは、姉二人がディズニーランドで働いていて、両方レストラン関係だったんで、たまにおしゃれなメニューを作ってくれて美味しかったんですよ。それも一つの刺激というか、覚えていますね。

Q:なるほどなるほど。高校卒業後に沖縄の調理師学校に入られたんでしたっけ?

irugo:はい。当時僕の代が130人くらい同期がいまして、卒業に必要な単位が足りない場合は、卒業式が終わってからの猶予期間として「卒業延期」というくくりになるんですけど。そこから、学校のお鍋を1つピカピカにしたら1単位を頂ける仕組みになっていまして…。仲間みんなで毎日鍋を磨いて、なんとか無事に卒業ができました。入学した時に「なんでこの学校は鍋がこんな綺麗なんだろう?」って思っていたんですけど、後々理由が分かりました。

沖縄の居酒屋にて
やんちゃだった頃のirugo(写真右)


Q:面白い文化ですね(笑)。そこで習った料理の礎はありますか?

irugo:学校はもちろんなんですが、バイトをしていた「黄金のライオン」という結構大きい居酒屋がありまして。アジアン居酒屋みたいな、当時の沖縄の最先端を行っていたおしゃれな店で、そこで今の僕の土台じゃないですけど、料理の考え方、段取りの基本を全部学びました。
自分のキャリアの中でどこが一番勉強になったかというと、今でもそこが勉強になったと思いますね。

壺川「黄金のライオン」

だいたい250人くらい入る居酒屋で、キッチンを4~5人で回していたんですよ。客単価が、沖縄では高い方の4000円くらい。かなり忙しかったんで、そこでいろいろ学びましたね。同時進行で料理を6個できるような脳みそ、「飲食脳」って僕は呼んでいるんですけど、そこで色々学びました。

Q:居酒屋ではどんな料理を作っていたんですか?

irugo:サラダ系、刺身系、お寿司系を作る「つけ場」、揚げ物の「揚げ場」、焼き物の「焼き場」という3つのセクションがあって、全て担当させて頂きました。今思い返すと我ながらよく出来ていたなあ…と思いますし、ありがたいことに経営していた方からもすごい評価を頂きました。アルバイトだったんですけど、沖縄の当時の時給って630円で、700円超えたらだいぶもらっている感覚だったんですけど、僕は750円頂いていたので、ご評価頂いていたんだと思います。
日中は普通に学校に通っていたので、17時から23時で働いていたんですけど、楽しかったですね。一緒に働いていた人たちとは今でも交流がありますし、Mugenにも来てくれました。

2.寿司キャリア①千葉「すし銚子丸」


Q:お寿司屋さんの板前を目指したきっかけを教えてください。

irugo:沖縄の調理師学校では、生徒の99%が沖縄出身で、内地(本国)出身が僕だけで。内地代表のプライドじゃないですけど、一緒にお酒を飲むときに周りに負けじと飲んでいたら、肝硬変の一歩手前までいってしまいまして…。
それもあって、将来のことを真剣に考えつつ成人式を機に千葉の実家に帰ってきました。その時に、音楽の趣味が合う友達と千葉の「福寿し」という、県内に3店舗くらいあるお店に行くようになりました。


夜遅くまでやっているので、水商売の方もいらっしゃったりするんですが、アルバイト終わりに行くようになって。
そこで、深夜3~4時にお客さんがいなくなったときに、好きな音楽を掛けさせてもらったんですね。西海岸のヒップホップ、ギャングスタラップって言うんですけど。AUX(ケーブル)でつないで。


そこで感じたのが、

「これ、めっちゃいいね」と。
「音楽と寿司、最高だね」と。

飲食をずっとやっていたけれど、こういう場所ってないのかなぁと思って探していたんですけど中々なくて。「それだったら自分で作ろうか」「寿司屋になるか!」と思って、はじめは地元の「すし銚子丸」という回転寿司屋に入りました。


Q:銚子丸の職場はどんな感じだったんですか?

irugo:パートに10~20年入っている名物おばちゃんたちがホールを仕切っていまして、普段はパチンコに行っているような方々で、その人たちに可愛がられないと先はないんですよ。彼女たちがキッチンで軍艦を作ったりもされていたんですけど、めっちゃ作業が早くて。僕は幸運にも可愛がって頂きました。

寿司の板前になって10年くらい経ちますが、一番最初に入った銚子丸の料理長が、寿司屋として一番すごかったですね。機械のように量をさばくんですけど、早かったし綺麗でしたし、あの人以上はみたことがないです。どんな高級店のヘッドシェフより、ミシュランを取っている人よりもすごいと思います。
機械のように正確で、どんな人よりも綺麗だったのですが、4kgほどある「丸」のサーモンを「捌き」から約200貫分の「切り付け」までを7分以内に終えていました。今でも鮮明に覚えています。
Kさんという、当時36歳の方でしたね。

「こんな大きなサーモンを機械のように捌くんですよ」

Kさんは過去を語らない人で。彼はおそらく元々高級店にいた方なんですけど、バブル期にお店が潰れてその流れで銚子丸に来ていたと思うんです。なので、腕を持っているんですよ。
今も東京の回転寿司店で握っている50~60歳くらいの方々で、そういう流れで今に至っている方は少なからずいると思うんですよね。

私が担当していたカウンター6席、テーブル6名6名の2卓、18人を回さなければなりませんでした。今でこそタッチパネルでのオーダースタイルですが、当時はなくて、口頭の注文を全部覚えなくてはいけませんでした。常にどなたに何を出すかを覚えてやらなければならなかったんですね。
佐倉店はかなりの人気店で、客単価3000円〜4000円ながら、週末は1日130万円以上売り上げるお店でしたので、ピーク時には戦場のようなお店でした。おみやげもあったのでそちらもやりつつで、超忙しくてへとへとでしたけど、楽しかったですね。
60kgくらいの本マグロの解体ショーなんかもやらせてもらえました。

銚子丸 佐倉店


Q:銚子丸ではどんなネタを握られていたんですか?

irugo:銚子港の船と契約していたかと思うんですが、いろんな魚が来ていました。今Mugenでも出しているカマスとか。多くのお寿司屋さんでは出さないと思うんですけど、美味しいんですよね。あとは、銚子なのでイワシとか光物がすごい美味しかった。最近は高級店でも出るようになりましたが、10年前とかはイワシなんて銀座では出なかった、今でこそですよね。他にもローカルな魚が色々ありました。当時はノドグロだって都内では中々食べられなかったと思います。今では高級魚ですよね。

Mugenのカマスの握り
皮目を炙ることで皮下脂肪を溶かし
すだちとお塩でさっぱりと召し上がって頂いています。


銚子丸では「先読み」の大切さや、銚子港から毎朝届く他では中々見られないネタの美味しさを学びました。1年半くらい握りましたが、ちゃんと東京の高級店で修業して箔を付けたいと思って、上京することにしました。
最後に、ホールの6人の名物おばちゃんたちと居酒屋に行きました。そこで一人一人にキスされました。ありがたいことに今でも連絡をくださいます。


3.寿司キャリア②新宿「おたる政寿司」


Q:銚子丸の後はどちらに行かれたんでしたっけ?

irugo:21歳の時に新宿の高島屋に入っている「おたる政寿司」に就職しました。


銀座、新宿、すすきの、札幌、タイにも進出していると聞いています。
そこでは1年半くらい握ったんですが、当時僕はお店で最年少で、最初はもちろんカウンターには立たせてもらえなかったんですが、そこで4~5カ月握って、銚子丸での経験もあって割と頭角を現すようになりまして。「そろそろカウンター入るか」と親方が言ってくださって、立たせてもらいました。カウンターでは、調理師会から派遣されている一番年配の板前さんが僕の横についてくださって。帝国ホテルに入っている「鮨源」で握られていた板さんで。その方が新人の教育掛かりで、その方と二人で握ったりしていました。

大好きだった大ベテラン「はしさん」の横で


政寿司の金額感は、ランチで3,000円、夜は10,000円くらい。お客さんはお買い物に来た若い女性とお母さんとか、呉服屋さんの寿司慣れしているマダムとか。芸能人の方もマツケンさんや広末涼子さんがよくいらしていました。

ある時に、タイムズスクエアの14階全部を改装するということで、二カ月くらい休業することになりました。その間に、他の板前さんは北海道の本店に研修に行ったり、銀座店に行ったり、高齢の方はお休みしたりしていたんですが、当時、インバウンドで新宿店はチャイニーズ系のお客様が多く、日によってはカウンターが全員中国人という日もあったんですね。ホールの人はちょっと話せたんですけど、板前さんで英語を話せる方がいなかったので、トラブルもあったりしました。僕はその方々よりは話せたんですが、ここで英語を話せるようになったら、それこそカウンターにメインで立てるのではないかと思い立ちまして、二カ月間英語を本格的に勉強しようと思い、上司に「フィリピンの短期語学留学に行ってきます」と申告しました。上司からは「行ってこい」と背中を押して頂きました。23歳の時ですね。
セブでは遊んじゃいそうな気がしたので、ストイックに勉強できると思った田舎のターラックという町の語学学校に5月に入学しました。7月に帰ってきてから改装終わりの店舗で9月まで働きました。
「政寿司」では「銚子丸」で習ったこと+α の技術を学びましたし、今だったらパワハラになるような指導も経験させて頂きましたね。

その後、ご縁もあってニューヨークの「Sushi Yasuda」で握ることになります。


4.寿司キャリア③NewYork「Sushi Yasuda」


Q:英語が話せるようになったこともあり、「政寿司」の次は何とニューヨークに渡られた、と。

irugo:はい。ご縁がありまして「Sushi Yasuda」というお店のホールスタッフの方が日本にいらして、その方が採用担当ということで面接を受けまして、正式に社員として入社することになりました。



Q:いきなり海外のお客様に握るのは、中々大変そうですね。

irugo:結構きつかったですね。8時から23時、休憩1時間。割と労働時間が長いお店で、客単価は昼が50ドル、夜140ドルとそんなに高くはなかったんですが、1日に300万円くらい売り上げるお店でした。すごかったですね。「銚子丸」的な忙しさに、技術的には「政寿司」のような丁寧さも求められる。最初は大変でした。

Q:具体的に何が大変だったんですか?

irugo:Yasudaの板前さんはニューヨークに住んでいる日本人の方々だったんですが、ユニークな方々が多く、人間関係に慣れるまでが大変でしたね。皆さん、ニューヨークで寿司を覚えられた方々で、今でも好きな方々なんですが、技術と同じくらいプライドを一人前に持っていらして。寿司屋ってイメージ的には体育会系でさっぱりしたイメージがあると思うんですけど、実際にはドロドロした女性社会のような世界で、全然さっぱりしていないんですよ。日本もアメリカも、お寿司業界は一緒なのかもしれません。さっぱりしていない、男らしくないというか、そういう人間関係が大変でしたね。意地悪をされたりしたこともあって…僕も当時は今より尖っていたこともあり、強く主張してしまうこともありました。そうしないとニューヨークという町では生きていけませんでした。

右から二番目が irugo NY Stlye

お寿司を握ったりする重要なことは全部日本人がやっていました。お料理を作ったりお酒を注いだりするのはメキシコ人でしたね。「アミーゴ」と呼んでいたのですが、みんな日本語ができるんですよね。メキシコ人は一家で働くので、おじいちゃんまで「Yasuda」で働くような家系の方々がいました。

Q:お店はどんな場所にあるんですか?

irugo:ミッドタウンにあったので、お客様は証券会社などのビジネスマンが90%でした。

夜はオリエンタルな顔ぶれで、観光にいらしたチャイニーズ系とか、北欧系の方とか。大きな株の乱れがあった日は本当にガラガラでしたね。だいたい似た顔ぶれの方々がいらっしゃいました。ヘルシーなものをランチに食べるニューヨーカーはルーティンを持っている人が多くて、そういう方は朝はスタバ、昼はあそこであれ食べて、夜はルーフトップバーに行って~みたいな感じでしたね。また、日本が好きな方がお店に来てくれたり、「ナイフとフォークをください」という方もいらっしゃいました。黒人の方はそこまで多くなかったですね。白人、特にユダヤ系、次にチャイニーズコリアン、インド人も多かったです。日本人は肌感で2%くらいでしたね。

Q:Yasudaではどんな握りを提供されていたんですか?

irugo:鮨は江戸前を貫いていました。日本の回転寿司で見るような「ピリ辛マヨネーズ」とかは「Can I have~?」とよくご注文を頂いたりしていたのですが、やりませんでした。ひとつ、「裏巻き」といって、1970年代に西海岸で生まれたと言われている、ノリを内側に巻くカリフォルニアロールがありまして。Yasudaでは「スパイシーツナロール」という握りは唯一提供していましたね。

Spicy Tuna Roll

アメリカのビザを取るために一番楽なのが実は「寿司」でして。9.11同時多発テロの前の時代で言うグリーンカードですね。現地ではそういう人たちが寿司マスターと言われていました。
店としては、超正統派の江戸前寿司を標榜していたと思うんですが、実際に働いている人で日本で修業した人は当時はいませんでした。アメリカで握っていたというキャリアは、ギャップとして前向きに自分は捉えていますが、お寿司屋さん的に拍が付くか?というと判断が難しいことも理解しています。

Q:Yasudaさんではどんなことを学ばれましたか?

irugo:学べたこととしては、本当に様々な方々を接客させて頂いたことですね。日本人より気難しい人、ハリウッドスター、怒らせたら我々の首が飛ぶような人(権力者)。今思えば、日本でヤクザの親分さんがいらしても、動じなくなるような体験です。慣れてくると、お客様が自分の人生経験をどれくらい上回っているか、感覚で分かるんですね、「あ、この人やばい」って。その瞬間に覚悟が決まります。この体験を経て、よっぽどのことがない限りは大丈夫になりました。英語が分からないながら、丁寧にやろうと心掛けていたので、日本に帰ってきてからはそもそも日本語が通じる時点で全然楽ですね。

3カ月はトライアル時期でしたが、カウンターに出してもらえることもありました。
店内では、刺身をさばく人、寿司のネタに切りつけるだけの人、ひたすら握る人、ランチ10貫のうちの巻物1貫のための巻物を1本巻くだけの人…といったように、色々なセクションに分かれていました。最初は巻き手から始まるのですが、ひたすらずーっと巻いていました。すごいアナログですよね。できるようになったら次のセクションに昇格します。

Q:文化が違うと中々大変そうですね。

irugo:4年間握りましたが、アメリカという土地はすごい合っていましたね。生まれ育った日本も好きですが、アメリカで一番印象に残っているのは、現地で出会った同年代の日本人友達です。彼らは生まれは日本だったりアメリカだったりハワイとばらばらで育ちが皆アメリカでした。
彼らと喋っていて日本で話すのと全然違うなと思ったのが、「Love myself」という彼らの根本的な考え方ですね。酔っぱらうと必ずその話になりました。お酒をたくさん飲んだ時には、「もっと自分を愛さないとだめだよ」と説教されていました。
「頑張るのも良いけど、まずは自分を愛してからだよ」と。
それが一番、自分が大らかになれた、色々と許せるようになったきっかけですね。「だらしない自分を諦める」ではないですが、東京に帰ってきてからも大事にしています。

5.寿司キャリア④独立「Sushi Bar Mugen ∞」


irugo:東京に帰ってきてから代官山の高級店で数カ月握りまして、21年の1月に恵比寿の前店舗にて、間借り寿司をスタートしました。


バーの間借りということで、スペース的にできることが制限される中で、最初は固まっていなかった部分が多かったのですが、大前提として「握り12貫+卵焼き+お椀」というスタイルに決めたのが良かったですね。魚屋さんとの信頼関係が築けるようになってきましたし、当初は、12貫のラインナップを悩むような日もありましたが、今は出したいものがたくさんあって12貫じゃ収まらないという、有難く楽しい気持ちも生まれました。


恵比寿での1年間は本当に楽しかったですね。30年生きてきて一番楽しかったです。理由は…わかんないですね。とにかく楽しかったです。本当に自分の好きなようにさせて頂き、来てくださった方々には、本当にありがとうございますという気持ちです。


Q:そして今年3月末に六本木での正式開店という流れですね。

irugo:はい。Mugenをスタートさせてからもうすぐ2年で経ちますが、
後悔は1つもありませんが、毎日反省ばかりです。過去に戻ることはできませんが、今できる事を毎日全力でやりきっています。

六本木Mugenの店内。
隠れ家のような空間で楽しむ江戸前鮨です。


Q:最後に、今後の意気込みをお願いします。

irugo:はい。
鮨職人を目指して10年、やっと本当に「鮨」が面白くなってきました。「Sushi Bar Mugen ∞」は1%も完成していませんが、毎日0.00001歩でも前に進めるように精進します。

Q:ありがとうございました!

irugo:ありがとうございました!

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いかがでしたでしょうか??

ありがたいことに年内は全日程満席のご予約を頂戴致しました。
ご利用頂いている皆様、誠にありがとうございます。

最後に、インタビュー中に印象に残ったirugoの言葉を掲載致します。

「吉野家では美味しい牛丼が500円で食べられます。なので、5000円というコース金額は決して安くはないと思っています。
『寿司屋の常識は一般の非常識』ということを忘れてはいけないですよね」


私自身、開店してからMugenの握りをおそらく300貫以上食べていますが、手前味噌ながら本当にシャリもネタも仕事も格段に美味しくレベルアップしています。

「皆様が気取らず、少しでも楽しんで頂ける鮨屋であると共に、次にお越し頂いた際にほんの少しでも『前回より美味しくなった』と感じていただけるようなお鮨をご提供する」

この理念を忘れずに引き続き精進して参ります。
長文にも関わらずご精読頂きまして、ありがとうございました。
六本木一丁目のMugenでirugoと共にお待ちしています!

株式会社ALAWA 宇佐美 顕



Sushi Bar Mugen ∞
住所:東京都港区六本木2-2-13 ALAWAビル1階
定休日:水曜日
ディナー:18時、19時半、20時~
ランチ:日曜12時~のみ、こちらも予約制で行っています
料金:Mugenコース 握り12貫+卵焼き+お椀 5000円
irugoコース 握り16貫+卵焼き+お椀 8000円
Kingコース 握り12貫+おつまみ4品+卵焼き+お椀 8000円
FULLコース 握り16貫+おつまみ4品+卵焼き+お椀 11000円
※ボトルのお持ち込みも別途2,000円で承っています!
席数:8席(6名様からお一人8,000円~で貸切のご予約も可能です!)
予約:食べログ、Tablecheck 、DM


https://www.instagram.com/sushibarmugen/?hl=ja



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