写真、記憶、ずれ 2024.5.16

大切な写真集がある。撮影者は写真好きで、日常で撮ることを楽しむ人らしい。写真集は、ご家族がまとめて出版したものだという。
旅先での写真が多いのかな?そんな感じ。
被写体は、人物が印象に残る。同じ部屋の中にいる人、同じ車に乗っている人、何枚にもわたって登場する人。または、たまたま交通機関に乗り合わせた人、道行く人。撮影者と被写体との関係性はわからない。写真にはタイトルも説明もないから撮影場所もわからない。
同じ場所・同じ構図で、ピントを合わせるところだけ変えた2枚の写真はチャーミング。
構図や被写体も魅力的だし、撮影者が注目したところ、感じたこと、が伝わってくるような写真ばかりで、すごくいい。“ときめき”がぽっと浮かぶ。そこにどうしようもなく惹かれた。

ある小説を読んだときの自分の感想。さっきたまたま見つけた。
「墓碑は書いた人の記憶におけるそこに眠る人の姿である。それはそこに眠る人についての記録とされ、ほかの人にも墓碑の通り記憶されるのかもしれないが、事実と異なる可能性もある。記憶には解釈が絡んでいる可能性がある。というか、思っているよりも、解釈が絡むことが多いのかもしれない」

写真に似ていると思った。

写真は、解釈が絡みに絡んだ記録であり、記憶といえる。想いや実物のことは伝わるようで伝わらないし、鑑賞者が独自の何かを感じることもある。
撮影者も鑑賞者も、その人なりに見て、感じて、考えることができる。それは写真に限らない。墓碑の書き手と読み手もそうであるように、文章にも当てはまる。なんなら世の中にあるもの全部そうだと思う。
解釈の余地、自由さ、思いもよらぬ何か、に魅力を感じる。
ずれが表面で認識されたとき、痛み苦しみや争いを引き起こすこともあるけれど。ずれていることのおもしろさとむずかしさを傍観しながら、渦中にもいながら、そこで散歩できたらいい。
ずれのなかにこそ、リズムがあって音がして温度がある。風がふいている。

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