たらたらつぶやく 2024.5.15

夢を諦めなければならなかった人に対して、「新しいことを見つけてみたらいいかもよ。世界は広い」と言ったことがある。世の中に数多ある物事からすれば、その夢は何万分の1の存在だ。他にも良いものがあるかもよ、と励ましたかった。けれどその人にとっては、かけがえのない、ただひとつのものだった。見えていたはずなのに何もわかっていなかった。とても反省している。
失恋した人への「次だよ次!相手はいくらでもいる」もそうだけど、たとえ本当に“いくらでもいる”としても、少なくともその時のその人にはその相手しか考えられないのだ。

近しい人たちの抱える傷について聞くことが、最近何度かあった。
相手の心の傷を、相手と同じ位置から見ることはできない。
みんな何かしらの傷を抱えている。それぞれの原因と、それぞれの深さを持っている。それだけはわかる。
なにかを発することや言葉をかけることが怖くなる。

相手から見えている景色と、自分から見えている景色は、驚くほどちがう。環境も状況も捉え方も考え方も、なにもかも。
小さい頃から、そんなことは嫌でもわかっているはずだった。
それなのに、あまりにも「私以外の人は皆Aだけど、私はB」「あの人もこの人も同じことを言っているけど、私にはわからない」と感じる場面が多かったからかなんなのか、わかりあいたくなって、「みんなにとっての“正”は存在する」「いつかきっとみんなとわかりあえる」と思いながら育った。
それは違う、と気がつけたのはだいぶ大きくなってからだった。
気がついただけで、実践においてはまだまだ失敗も多い。人と同じになれると思っていた自分が、つい思考し、つい発言もする。
人と人は違うという前提でいるようになって、いろいろと楽になった。その代わり、何を言ったら良いのかわからなくなった。けれど、傷つきたくなくて傷つけたくなくて蝋で固めたら、身動きが取れない。息もしづらい。そこから発した声はくぐもっている。身を晒してこそ、自分の言葉で語ることができる。


ニュースを見ないあいだに、唐十郎は亡くなり、こまばアゴラ劇場は最後の公演の幕をおろしていた。どちらも特段思い入れがあるわけではない。唐十郎なんか観てみたくてチケット取って行けなくなった、程度だ。でも、ああ、何かが終わったんだろうな、という感覚がやってきた。知識に基づいた想像の域。実際は、私が知らないところで始まった何かが、一瞬私の頭をかすめて、また知らないところで終わっただけ。そうだと思う。けれど、入ってきた話は、すこしずつ、私の頭をかき回す。今日はじまったものや、今日終わったものも、いつかはここにやってくるのだと思う。星の光みたいに。

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