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挑戦することがとても怖い【躁鬱日記】

流れるままにフリーターになっていたが、今は正社員をなんとなく目指して生きている。
最近、取ってみたい資格を見つけた。
教材を買って数ヶ月学習し、年に一度の試験に合格すれば良いらしい。専門学校があるような、大層な資格ではない。チャレンジするのに大きな壁があるわけでもない。教材費で少し出費がある程度だ。
なのに、チャレンジするのが怖くて仕方ない。
私はようやく、自分に本当に心から期待をせずに、生活を始めることができた。躁状態の勇み足から距離を置くことが出来て、毎日心は静かで、嫉妬に狂うことも、刺激に飢えることもない。静かに、諦めて、落ち着いて暮らしている。ちゃんと、空を見上げたら綺麗だと感じる。バイト先の人に教えてもらった近所の銭湯で、極楽を感じている。
そんな中、また私の精神を荒らす、「努力しないといけない日々」が始まるのかと思うと、怖くて仕方ない。
私には出来ないと思いたいのに、「これくらいならできるだろう」と思ってしまって、その無意識の傲慢さがいつも私を地獄に叩き落としてきた。
学生の頃からずっと、破滅的な行動で心を守ってきた。学校に行かず、誰にも相談せず、自傷し、自殺を妄想し、どうしようもなくすることで、自分を追い込んでそれを諦めの一端として平穏を作っていた。
幸せなことに、私は今、破滅とは真反対、建設的に生きることを目指している。それは、どう考えても、一緒に生きてくれている彼氏の存在が出来たからだ。情緒不安定で迷惑をかけたくなくて服薬を始め、実際に落ち着いてきた。承認欲求が暴走することも、死を願い続けることも無くなった。私は今、成長したくて、その為に頑張りたいと思っている。しかし、そう思うことは本当にとても怖いことで、それは、また立ち直れない挫折を味わう可能性があるからだ。
“この資格を取ってみたい”
と、願った瞬間にもう泣けてきたのである。
絶望的な合格率や、払えない教材費のせいではない。
自分の人生のための建設的な願いが生まれてしまったことで、この平穏が終わったことが苦しくて泣いている。

自分のために頑張りたい、
頑張る力なんて無い、
心を守るために頑張らない方が良い、

躁鬱で自己肯定も自己否定もめちゃくちゃになり、事実として底辺の人間だけがここに残った。そんな私が目標を持つことが、どれほど怖いか、わかってもらえるだろうか。挑戦というものはきっと、世の中の人間みんな怖いものだろう。しかし、躁状態に頼りきりだった私は、冷静に考えて挑戦することは今まで殆どなかった。冷静に考えて挑戦するというのは、上手くいかずに鬱が悪化するような未来を承知の上で挑戦するということだ。

でももう、やってみたいと思った時点で終わりである。
終わりの始まり。
数え切れない躁状態を経験した私にはもうわかる。こうなっては進むしかない。
私には脳をコントロールすることも、もっと言えば、努力することも出来ない。

流れるままに、願うことしか出来ない。
足場が勝手に進んでいくお化け屋敷のようだ。

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