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「裁きは何をもってして」


映画「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」でアジア人初のアカデミー主演女優賞を受賞したミシェル・ヨーの受賞前のインタビューを読んでいたら、彼女がマレーシア出身の方と初めて知りました。
その時、あまり関係ない過去の記憶が猛然とよみがえりました。

それはたぶん30年ぐらい前、マルグリット・デュラスが晩年に明らかにした少女時代の自伝的小説「ラ・マン」(愛人)を読み、衝撃を受けたあの時の感情です。

仏領インドシナ(現在のベトナム)で騙されて入植した母の元、貧しい生活を送る家族の前に姿を現した裕福な中国人青年と、今でいう「援助交際」で家族の黙認を受けながら関係を持つ15歳の主人公(デュラス本人)
「18歳で私は年老いた」の書き出しが、最早文学として完全であることを示しています。

どうにもどん詰まりな世界、相互不信の家族、貧困、見捨てられた何もかも。
徹底的にドライに解剖される感情を執拗に描きながら、それでいてすべてが狂おしい小説は映画化され、ジェーン・マーチがその狂おしさを見事に体現しました。

しかし、ポリコレと人権擁護のこの時代、「ラ・マン」はぺドフィリア(小児性愛)の烙印を押されてしまいました。
これは絶望的な恋愛でもあり、小説を読めばどこにもそのような要素が無いにも関わらず。
どこかの国の法律が性的同意を14歳と認めている愚かな次元の話ではありません。

しかし、自分には、この現在の評価を反対もできません。
わからないのです。

島崎藤村は姪と関係を持ち妊娠させて、それをネタに小説を書きながら私生児共々棄て去ってパリに逃げています。
完全な鬼畜が日本文学の代表作家です。

パブロ・ピカソは幾度となく結婚を繰り返しましたが、常に女性に支配的に振る舞うデュオニソス的暴君であることが知られており、最近になってそれが理由となり、その芸術も否定的に捉えはじめられています。

現在の価値感で過去を否定すべきなのかどうか、僕にはわかりません。
行いと創造は別と考えるべきかもしれませんし、かといって割り切ることもできないのです。
荒木経維が長年に渡ってモデルを優位的立場でもって支配し関係を強いたことを知った後、僕は彼の写真を新たに見たいとは思えなくなってしまったからです。

ただ、デュラスは自身の人生を語り、それは若かった僕の心を射抜き、その矢を今思い出した。
誰かに貸して消えてしまった「ラ・マン」をもう一度買い、あの狂おしく醒めた物語を何十年ぶりに読む、そうなるであろうことだけが今の僕には唯一確かなことでしょう。

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