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あなたという月の光のために(吉田健一「大阪の夜」)

 細かく区切られた時間の抽斗に「やるべきこと」のひとまずの完成形を入れておく。次から次へと進まねばならない道のりの単調さにときどき疲れ、ついぼおっとしているうちに、まだ何も入っていない抽斗があることや中身の不具合を人から指摘されることもある。
 一時間ごとの、ときには数分ごとの仕切りから仕切りへと渡るように、たいていの一日は淡々と、生真面目に過ぎてゆく。

 駅からの帰り道。重い鞄を肩にかけなおし、そのしぐさの延長でなにげなく空を仰ぐ。雲のない夜空に月がもう昇っている。
 歩行がとまり、思うよりも澄んだ明かりをしばらく見上げる。ああ……このままずっと見ていたい。

 小さな頃からそうだった。あ、今日は三日月。ああ、もう満月。通学の道でも、庭の片隅でも、ついぼおっと立ち止まってしまう。
 するとかならず周囲の誰かに「なにしているの? はやく歩きなさい」「風邪をひくから、家に入りなさい」などとせかされ、短い夢からすぐに覚めた。
 できるのなら、このままずっと、月あかりだけを見ていたい。しかしそれは細切れになった一日のなかでは、なかなか実現しづらいこと。それでも文章のなかでなら……といつしか、夢を抱くようになった。

 たとえ一分、という束の間の持続でも。それは分断された虚しいひとコマではなく、わたしがこの世からいなくなっても変わらずに滔々と流れる時間へと合流する一枚の、艶やかな青葉なのかもしれない。
 そう何度でも思わせてくれるのが、吉田健一の「時間」をめぐる数々の文章だと思う。

 酒豪でもある著者の次の文章を初めて目にしたとき、時間の区切りに囚われない身とこころを文章の内側に作れることを知り、胸が明るんだ。

 本当をいうと、酒飲みというのはいつまでも酒が飲んでいたいものなので、終電の時間だから止めるとか、原稿を書かなければならないから止めるなどというのはけっして本心ではない。理想は、朝から飲み始めて翌朝まで飲み続けることなのだ、というのが常識で、自分の生活の営みを含めた世界の動きはその間どうなるかと心配するものがあるならば、世界の動きだの生活の営みはその間止まっていればいいのである。庭の石が朝日を浴びているのを眺めて飲み、それが真昼の太陽に変って少し縁側から中に入って暑さを避け、やがて日がかげって庭が夕方の色の中に沈み、月が出て、再び縁側に戻って月に照らされた庭に向って飲み、そうこうしているうちに、盃を上げた拍子に空が白みかかっているのに気付き、また庭の石が朝日を浴びる時が来て、「夜になったり、朝になったり、忙しいもんだね、」と相手にいうのが、酒を飲むということであるのを酒飲みは皆忘れかねている。

吉田健一「酒宴」

 いますぐに何かを成さなければ、やらなければ、自分には価値がない。自分のことばにも、作るものにも価値がない。でもそれはほんとうのこと、だろうか。
 「夜になったり、朝になったり、忙しいもんだね、」と感じるときの、時間のおおらかな留まり。人がただ、ここにいるだけですでに喜ばしい。この確かさのまえでは、そんな焦りこそが淡い幻想なのだとも思えてくる。

 他にもたとえば、パリ、ロンドン、ニューヨーク、大阪、神戸、京都、金沢などへの旅の時間をめぐる考察と感受の穏やかな協奏とも呼べる短篇小説『旅の時間』。
 ここには、全篇を通して、ただそこに人が「個体」の生き物として時間とともに「在る」ことの、決して特別ではない充実が描かれている。
 ともすれば、何もせずにここにあることは退屈で無価値なことだと見なされがちだ。けれど、この連作集のなかでは、主人公とその周辺の人や物ごとは、何もすることがない=退屈という通念から軽やかに逃れている。
 言い換えれば、退屈であることの魅惑にすら触れている。
 一瞬一瞬の時の移ろいの甘美さと充溢に気づける繊細さと、そうした感じ方を通念よりも優先させるだけの余裕としなやかさがこれらの文章にはあるとも言える。

 ひとりで、あるいは誰かとともに、月を見上げる。ただそれだけのこと。
 「大阪の夜」という一篇では、そんな時間の尽きない豊かさが、この上ない美しさで現れている。

 主人公の「山田」は、三味線を聞かせてくれる定宿の「おかみさん」とともに飲むうちに、「自動車でどこかに行って見ましょうか」と提案され、ある屋敷の小さな部屋を訪れる。
 そして月の光だけがひたひたと漲る庭を眺め、盃でその光を受けながら、ふたりでまた飲み始める。息を潜めるように時間が静まってゆく、その場面。
 それ自体が読む人のこころを刻一刻と満たす月光であるような文章を目にするたびに、時を止めて月を見ることの意味が、頭ではなく、喉を通り、胸元へとゆっくり、注ぎ込む。

 月の光を浴びた庭を見てその月光を刺繍した袖に受けた女と飲んでいて意識が曇ることはない。併し女が段々親しいものに感じられてきたことは事実だった。例えば虫の音も聞かなくなって雪を被っていないだけのその庭で一人で飲みながら月見をしていれば夜が更けるのも月が傾くのも言わば自分の営みであって自分の意識が一切を蔽い、その月光が及ぶ所に意識も及んでいるというような状態が生じる。それは必ずしも張り詰めたものではない。その月の光というのが柔かなもので心に息づく余裕を与えるからであるが今は脇にその女がいた。やはりその女の意識も一切を蔽っているに違いなくてただその滲透に山田がそこにいることだけが抵抗し、それならば山田の意識に洗われながらそれを受け留めているのはその女だった。これは女に触れるのに近かった。或いは山田は事実そうして女に触れていてそこに月光とは違った温いものがあるというのが山田がその時感じていることを要約した。

吉田健一「大阪の夜」


 自分と同じように月を見上げる人の、その意識で一切を蔽おうとするしぐさを感じ、それを受け留めあうのは、その人に「触れる」のに近いという。
 月の光のなかで、決して触れることなく、触れあう二つの時間の漂泊された美しさ。

 月をただ見上げていたい……。わたしがそう願ったのは、月の光ですべてが蔽われる、そんな時間の丸みを味わってみたかったからかもしれない。
 そして、いまどこかで、自分と同じように月を見上げるために、しばらく立ち止まる人に、こう告げたかったからかもしれない。
 決して触れることはない、もっとも近い体温を感じながら。

 「いま、ここにあなたがいてくれて、うれしい」と。



吉田健一『旅の時間』(講談社文芸文庫)







→メモ:距離という涼しい波間(鏑木清方「胡瓜」)