[詩] 伝言

振り返ったひとが
もういちど振り返るのを恐れ
わたしは振り返らずに別れたのか
振り返ったときにはすでにいなかったのか

決して忘れまいと誓ったはずの数々の歩行やささめきも
思い出せない

振り返ったひとなど最初から存在しなかったのか
そうした忘却があったことすらしだいに忘れ
やがて すべての記憶も 記憶する力をも失うとしても

いつもと変わらない窓から聞こえてくる
鳥のさえずり 登校する子らの笑い声
信号機が点滅する合図 車道のクラクション
そんな取るにたらない朝の粒子を
見送れるだけの 色彩が目に残されるなら
遠くには響かないけれど
初夏のグラスを震わせ
自らも震えている水滴のような歌を
わたしは 書き写したい

自分が生まれる前に耳にした
まだ知らない言語の音を手繰って

そして
幾多の別離を忘れてもなお
かすかに惑い続ける
生の瞬きの
一行を
真っ白な記憶に伝言する
光のなかに長く取り残されたものの
最後の務めとして


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峯澤典子詩集『ひかりの途上で』(七月堂)より。

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