ランダムワード小説「盾とマグカップ」序のみ


 
東京神田神保町の錦華通りにその店は存在する。
神保町駅から大通りを右に曲がると途端にコーヒーの匂いが鼻孔をくすぐる。
その匂いにつられて、すぐ近くの雰囲気の良い喫茶店に入ってしまいそうになるが、今日の目的はそれではない。
…実際欲に負けて入ってしまったことがあるので、この店のコーヒーが美味しいのはしっているが。
とにかくここではない。100歩ほど進んだ左手側、奇妙な盾が飾られたその建物はあまりに異彩を放っていた。上がった息を整えて店に入る。僅か5分程でこうなってしまうとは、私も老いたかな。
「いらっしゃい。」
マスターの声の低い声は不思議だ。響いた空間に無類の安心感を与えてくれる。やわらかいソファのような座り心地の特殊なカウンターに腰を降ろすと、脳が溶けるようだ。連日の作業もひと段落ついた私には、既に至福の時だった。
「お客さん、顔が溶けているよ。」
カウンター内からの声に意識がもどる。
「失敬失敬。ここにくるとどうも落ち着けてね。
それよりマスター。いつもの。」
マスターから笑みがこぼれる。
「これを頼むのはあんただけだよ。」
「もうそんなのは聞き飽きたさ。それにあんたの一番のおすすめはこれだろう?」
「まあね。」
マスターがカウンター内の下から、あるものを取り出した。
鍋だ。
弱火にかけた鍋に牛乳、砂糖を入れゆっくりとかき混ぜていく。
「仕事はどうだい?」
「嫌なことを思い出させないでくれよ。せっかく休まりにきたんだからさ。」
「でもひと段落ついたんだろ?」
「それはそうだけど。不倫調査の後なんてそう簡単に気分は戻らないさ。」
恨みを買われる可能性も低くはない仕事だ。それに他人の不倫事情など調べて楽しいやつなんかいない。
「それは大変だな
…大学を辞めてもう3年か。」
「探偵業を初めて三年といっておくれよ。それに私はこの生活に満足しているんだ。」
「それは失敬。」
火を止め、鍋の中のそれをマグカップに注ぐ。
甘い匂いが苦い日々をかき消してくれる。
ホットミルクだ。
「どうぞ。」
私の目の前だけでなくこの店全体が甘い香りで満たされる。
まず、一口。
家では味わえない濃厚な味わいが口の中を広がる。いつしか人々はホットミルクを電子レンジ以外で作らなくなってしまった。
…まあ私が生まれたころにはとっくにそうなっていたのだが。
「今日はどのくらいいるつもりだい?」
マスターの店は通常午後5時には閉店する。この周辺には仕事帰りのサラリーマンにターゲットをあてた喫茶店が数多く存在するからだ。競合して勝てるほどこの店には人気がない。マスターもそれを理解してやっているのだから、この時間設定は正しいのだろう。
「5時間。」
そんな都合など私には関係ない。
「じゃあこれを。」
マスターが喫茶店には似つかわしくないものを手渡してくる。
それはマグカップサイズの盾だった。
「じゃあマスターいつもの説明してよ。子守唄にして寝るからさ。」
「言われなくてもするさ。
これはうちの秘伝の蓋の盾でございます。ところでお客様は『矛盾』というお話をご存じでしょうか?そこでは自称ではございますが、どんなものも防ぐ盾というものがございます。そんな盾があれば、提供したお飲み物を冷めなようにすることが可能ではないかとおもいたちました。そうしてここにあるのが湯気と温度を完全に閉じ込めることのできる特製の小さな盾です。長い時間ゆっくりしたいあなたに…」
マスターの話は、いつも途中で途切れる。私の意識は、まどろみの中に落ちていく…

執筆者:Noi_

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