横道にそれる幸せ(エッセイ)
ただダラダラするだけでは意味がない。
やるべきことをやっているだけでも意味がない。
「やらなければいけないことがあるのに」
「いったん進む足をとめて道草を食う」
ここにカタルシスを感じる。
カタルシスという言葉は、抑圧されていた感情が開放された時の快感のことを指すらしい。今の感覚はこの言葉の意味そのものではないか。
私は今日久しぶりに、昔ハマっていた漫画を引っ張り出してきて夢中になって読んでいたのだが、
ただ漫画を楽しく読んでいたわけではない。
時間を持て余した中で、ゆったりと落ち着いて楽しみを得るのも悪くはないが、そこに背徳感に似た快感はない。
やらなければいけないことがあるのに、
逸れた横道で時間を浪費する。
このことでしか得られない養分がある。
高校生の時、片付けなければならない課題があったとき、その課題を締め切りまでに終わらせないといけないという焦燥感があった。
なので、いつもその課題に真っ先に手を付けて終わらせようとしたが、私の場合は小説が好きで、課題から逃げたいときには小説に手が伸びた。
期限までにその課題はちゃんと終わらせていたが、その過程で何度か小説を読む時間を挟んで、そこでなんとも言い難い楽しみを得ていた。
仮に、普通にすごく暇なときに小説を読むとすると、「小説を読むこと」に逆張り感はない。むしろかなり真っ当な行為に思える。ここでは、純粋にそのこと自体を楽しむことができるが、
「小説」という南の国バカンスに逃げ込みたい理由、すなわち「他にやらなければいけないこと」が無いので、「小説」という逃げ道への引力は弱々しくなる。つまり、「楽しみ」が求心力を持つのは、それが非日常となるような「日常」があるからだということになる。
人間は、反抗期の悪ガキのようなもので、現状の抑圧から抜け出すことでカタルシスを得る。
会社員がパチンコを打ったり酒をかっくらったりするのは、社会人としてのしがらみや責任からその時間だけは離れていたいからではないだろうか。
私は初めて東京でインターンシッププログラムに参加したとき、会社で研修講義のようなものを受け、泊まっているホテルへ行くと、だいぶ疲れてしまってボーっとしていた。
例えば、やることが全然なくて1日中ずっとボーっとしている人がいるとすると、このボーっとする行為はあまり意味を持たないかもしれない。
しかし、初めてインターンに来た私からすると、ホテルでボーっとしている時間は、甘美な休息の時間であった。
とても無駄なく効率的に生きる人も良いし、1日中惰眠をむさぼって、気の向いたことをしているだけの人も全然良い。
だが、少し自分を抑圧している日常から、抜け出した非日常で
「やらなければいけないことがあるのに」
「いったん進む足をとめて道草を食う」
というところに、やはり人間らしい喜びを感じるのだ。
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