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【連載小説】“ベーシックインカム” 第1話

A氏がその感情を初めて抱いたのは6月の終わりごろのことだった。

A氏はいつものように会社の屋上でタバコに火を付けた。
5階建のビルからは地上の様子がよく見える。A氏は煙を吐きながらぼんやりと地上を眺める。交通量の多い道路の脇を人が歩いている。
A氏はその中にN氏の姿を認めた。N氏は彼の妻子と3人で歩いている。
息子を真ん中にN氏が右、彼の妻が左に立ち、手をつないで楽しそうに話している。
A氏はこの場所からN氏を見ることや、そもそも仕事中にプライベートの知り合いを見るのは初めてだったこともあり少しの驚きを持って彼らを眺めていた。
その時だった。その感情はA氏の心に不意に芽生えた。それは不安とも、羨望とも、後悔とも言えないなんとも形容し難い感情だった。
「なんで・・・」
思わず声が漏れた。続きは出てこなかった。
A氏がぼんやりと眺めている中、N氏は通りの角を曲がって見えなくなった。
タバコの燃え殻が音もなく落ちた。

・・・

20XX年、政府はベーシックインカム(BI)の導入を決め、一部地域から試験的な運用が始まった。それから3年、今やBI受給世帯は国民の2割を占める。
この3年で国民の意識の中に3つの経済階層が浸透していた。
富裕層、カツカツ層、BI層。
富裕層にもレベルはあるが“金に困らない”というひと括りで捉えられており、BI層はその名の通りBI受給者を指す。そしてカツカツ層はBIが適用されるほどの低所得ではないが、かと言って富裕層とは言えない層。
ネットスラングは人々の無意識を容赦なく言語化する。カツカツ層という言葉もその1つだ。

これら3層のうちBI層以外は明確に定義できないが、人々は自分が“何層の人間なのか“を明確に意識していた。
A氏もその1人だった。彼のこれまでの人生は、カツカツ層の枠から出てはいない。
彼はN氏と同じように妻と3歳の息子と共に、海が近い首都圏のベットタウンに暮らしている。2年前に購入した3LDKのマンションの返済費と生活費を夫婦共働きで稼いでいる。

A氏がN氏を初めて見たのは家の近くの浜辺だった。
彼が日課である朝のジョギングをしていると、N氏が子供と一緒に歩いているのが目に入った。
BI受給者には国が大手アパレルメーカーと組んで生産している通称“国民服”が支給されている。着用は自由だが、受給者の多くは好んできている。N氏もその1人のため、A氏は一目見て彼ら親子が受給者だと分かった。

A氏には受給者の知り合いはいない。
知り合う機会もない。3つの階層の生活圏は、特に意図する訳もなく自然と離れている。
富裕層は都心の一等地や、離島のリゾート地。BI層の多くは全国に点在する空き家や廃墟を、国がここ数年でリノベーションした経済特区に住む。
A氏のようなカツカツ層はベットタウンや地方都市など全国にまばらに点在する。
本来、彼らはBI層と生活圏が被ることはなかったが、BI受給者の増加に伴い、カツカツ層と生活圏の重複が見られるようになった。N氏はおそらく海辺の開発地に最近できた公団に住み始めたのだろう。
A氏はそう考えていた。

カツカツ層の多くはBI層を蔑視していた。
ろくに働かず納税も少額でありながら、のうのうと暮らしている彼らに対する侮蔑は、BI発足時こそ家庭内での陰口の範疇であったが、最近では公の場でも多く聞かれる。
職場や昼間のファミレスはその温床だった。
A氏自身は自ら望んで制限のある暮らしを選んだBI層に対して、自分ではなんら特別な感情を抱いてはいないと思っていた。

A氏はN氏が息子に話しかけながら浜辺をゆっくりと散歩している姿と毎朝すれ違うようになった。それは彼にとっては最近になって始まった、朝の1つの光景でしかなかった。
だが彼は、あの屋上でN氏一家を見つけた翌日から、朝のジョギングに行くのがなんとなく億劫に思えてきた。彼はそのモヤモヤの正体がわからないまま、ジョギングコースを浜辺から川沿いの道に変更した。

・・・

数日後、A氏は職場から帰宅する電車の中で1本の動画を見つけた。
動画アプリに表示されたのは、BI受給者がその生活模様を伝えた動画だった。以前からそのような動画が数多く存在し、彼も妻と共に何本か見たことはあった。だが彼らの生活様式とあまりにも異なる価値観に対し、好奇心は長くは続かなかった。
しかし、今スマホに表示されているサムネイルに彼は強く惹きつけられた。そこには笑顔のN氏がいた。その動画は10万回以上再生されており、サムネイルに表示されたアイコンは内閣府のマークだった。

A氏はサムネイルをタップした。
3分の動画が始まった。

(つづく)

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