5分でアランの『幸福論』#32 “アランを突き詰めたらブッタが現れた件”
(今回は通常の投稿ですが昨日に続き5分で読める分量ではありません。
なぜなら考察の過程で、あるアイディアが浮かびそれを書かずにはいられなかったからです。すいません。。。でも最後まで読んでもらえると嬉しいです。。。)
アランは言う。
憂鬱な気持ちや不幸な思いは、例えるなら病気になるようなもの。
だからこれは風邪やその他の病気と同じ。あれこれ考えず我慢しようと割り切るのが大事だと。
これを読みこう思った。
「いやいや、極論すぎるだろ!」
病気なったと思って割り切れって、
それができないから悩んでんじゃないか。苦しいんじゃないか。
これまでアランの思想をまとめて彼をわかった気になりかけてたが、
いきなり極論(というか暴論?)の右ストレートをくらい面食らった。
そしてなんだかイラッとした。
が。。。
待てよ。これは”ファスト思考”だ。(4/17の投稿参照)
ちょっとスローに考えてみよう。
ということでいろいろ構造化してみた。
結果、驚いた。
結論から言うと、アランの幸福論と仏教の共通点を見つけたのだ。
以下、解説
心の不調 その2つの構造
構造化にあたりテキストでもわかりやすいように数式を用いてみた。
まず病気の状態を風邪に例えて数式化してみる。
健康な人+病原菌=身体が不調な人
と表現できるだろう。
これを心の病にも当てはめると、
健康な人+病の原因=心が不調な人
となる。
適応障害などは原因から距離を置けば収まる傾向がある。
これは原因を引き算すれば健康になる上記の式に当てはまる。
だが心の病には原因から距離を置いてもなかなか手強いものもある。
憂鬱などがそうだろう。
これは式に変換すると足し算ではなく、
健康な人×病の原因=心が不調な人
という掛け算の関係ではないだろうか(詳細下記)。
まとめると心の健康問題には
①健康な人+病の原因=心が不調な人
②健康な人×病の原因=心が不調な人
という2つの構造があることが仮説できる。
①はシンプルだが、②はちょっとややこしい。
掛け算とはいったいどういうことだろうか。
憂鬱の掛け算を紐解く
憂鬱な気持ちは原因を取り除いただけでは晴れない。
例えば身体は健康なのになぜか気力が湧かない、何にもやる気が起きない、などの気持ちは「職場のストレス」などキッカケはハッキリするかもしれないが、
原因と言われると曖昧だったり、1つにまとめられるものではないのではないだろうか。
つまり「足し引き」という関係ではない。
だとすると憂鬱の根っこは自分自身から派生している可能性が高い。
ここで数式に帰ってみると、
②健康な人×病の原因=心が不調な人
原因を取り除く、つまり0にすると掛け算のため健康な自分は0、つまり消滅する。
これはつまり、原因は外部(環境)ではなく内部(自身)にあることを意味する。
ここまで読んで「いや、これも暴論では?」と感じた人もいるだろうがちょっと待ってほしい。
今日の本題はここから始まる。
掛け算の関係を分かりやすくするため具体的な数字を出してみる。
健康な人×病の原因=心が不調な人
4 × 3 =12
12を4にするには3で割ればいい。
つまり心が不調な人12を、病の原因3で割るのだ。
これを図にするとこうなる。
心が不調な人とは、健康な人が増殖しているだけに見える。
だが健康な人がそのまま増えても不調にはなるとは考えづらい。
なので健康だったが何かしらの不調原因に感染したことにより、心が不調になってしまった人が、そのコピーを自ら増やしてしまった、と仮定する。
それを図にするとこうなる。
ここであらたな仮説が浮上する。
心が不調な人には、元々健康だった人とそのコピーたちが並列して存在しているのではないか。
不調といっても曖昧なので、
ここで憂鬱な時とはどういう感情なのか、自分の経験をもとに書き出してみる。
・心の言語化なんて無理、というかしたくない
・何も決められない
・言葉や態度がキツくなる
・何もできない
・生活習慣乱れる
・何も頑張れない
・まともに考えられない
・何にも集中できない
などなどだろう(書いてるだけで憂鬱になってきた)。
この状況、例えるなら四面楚歌、八方塞がりの状態だ。
これを図にするとこうなる。
本体を不調な8人のコピーが囲んでいる。まさに八方塞がりだ。
数式で表すと
1 × 9 =9
この不調な8人とは何者だろうか。
アランとブッタ
漫然と考えていて、突然あることを思い出した
「・・・待てよ、仏教に四苦八苦という概念があったな。
この8人ってあれのことでは?」
四苦八苦とは、
おお!どれも決して取り去ることができない、
それでいてつかみどころがない苦しみ。まさに憂鬱の原因ではないか。
いやいや、ここで喜んでいる場合じゃない。
この連載は『幸福論』。大事なのは苦しみを取り除くことだ。
と思ってその方法を探してみたら、あった。
それが仏教における8つの正しい道、八正道(はっしょうどう)という考え方だ。
八正道とは、
8つの道をより具体的に書くと、
正しい見解(正見)
正しい意志(正思)
正しいことば(正語)
正しい行い(正業)
正しい生活(正命)
正しい努力(正精進)
正しい意識(正念)
正しい精神統一(正定)
となる。
八正道をそれぞれ先ほどの憂鬱な感情に当てはめてみると、
正しい見解(正見) ↔︎心の言語化なんて無理、というかしたくない
正しい意志(正思) ↔︎ 何も決められない
正しいことば(正語)↔︎言葉や態度がキツくなる
正しい行い(正業) ↔︎何もできない
正しい生活(正命) ↔︎生活習慣乱れる
正しい努力(正精進)↔︎何も頑張れない
正しい意識(正念) ↔︎まともに考えられない
正しい精神統一(正定)↔︎何にも集中できない
対立関係になる。つまり八正道は憂鬱と戦う道なのだ。
そして涅槃とは、一切の煩悩(ぼんのう)から解脱(げだつ)した、不生不滅の高い境地。
つまりは悟り。つまりは健康な人である。
こう考えると、本体の1人(悟りを道を歩もうとする私)が感染したことで、
煩悩に苛まれた8人の不調なコピーを作り出し、出口を塞いでいる。
そいつを1人づつ浄化するのが、すなわち八正道ではないかと。
それによって突破口が開かれ、本体も治癒の道を歩むことができるのではないか。
要は苦しみを分解して対処するのだ。
分解とは分けること。・・・・・・つまり割り算だ!
驚いた。
突然アランに殴られたかと思ったら、その衝撃で仏教の教えに吹っ飛び、
あろうことかアランと釈迦が同士であることを発見し、
挙げ句の果てには「病気と思って割り切る=割り算」という結論に行きついてしまった。
なるほど。
割り切りとは、分かったような振りして諦めるというような
なんだか釈然としないネガティブなイメージがある言葉だが、
本当は「割って切る」という、字面通りおもいっきりスッキリさせる行為なのではないか。
(ちなみに釈然とは、疑い・恨みなどが消えて心が晴れ晴れするさま という意味らしい)
それは過去の投稿でも考察したアランの基本的姿勢「覚悟を決める」ということなのだろう。
覚悟を決めて割る。切る。
それが心の病との付き合い方であり、8人の不調な自分を健康にする「道」であると。
数千年続く仏教の開祖と、1世紀前の偉大なる哲学教師が教えてくれたのであった。
だが、まだ割り切れない問いも残る。
「割って切る。そのための刀はどうやって手に入れればいいんだ!?」
「そもそも本体が病気にならない方法はないのか!?」
いよいよこの連載も哲学の沼に足を踏み入れ始めた観がある。
哲学とは人の心を正す薬のようなものだろう。そして良薬と毒とは紙一重であるらしい。
いざ、毒を喰らわば皿まで!
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