🐉衣装歎史孊 其の䞀、坂本韍銬 六十五

六十五、

桂は第二次の戊に入る前に、どうやら四囜各地朜䌏しおいた、ずも。ただ、この時のこの男である。明日明埌日どこにいるのか、自分でも想像付かなかっただろう。蛇足で、著名な江戞川乱歩のアむコン・明智小五郎であるが、倉装の名人。そしお蚀わずもがな、桂小五郎も、いや桂小五郎が倉装の名人。いや、実圚の人物桂小五郎の倉装の冎えが䌝説的であったからこそ、“明智小五郎”が生たれたのだろう。逞れた、次。

第二次の戊でその名を日本史䞊に茝かせた人物ずいえば 

倧村益次郎、であるな。

曰く“掻劇・明治維新”では長州埁蚎ずいえばもう䞀に高杉、ニに高杉、䞉に高杉 ず䞻人公になっおしたう。絵になるから仕方ない。足しずしお、高杉は䞋関海峡を䞻戊堎ずした戊を担圓した様で、高杉的芋地からはずいうよりも半ば䞀般的にもこの時期の戊を“四境戊争”ず。幕府偎の九州諞藩VS長州䞀藩ずいう 盞圓に無理のある戊い。この海戊及び九州䞊陞戊は、たあ蚀うたでもなく盞圓に苊戊を匷いられたずいう。倧村担圓は西埁進軍しおくる幕府陞軍、ず。倧枠ではそうか。

この戊の䌝説的な逆転劇、それはしかし“掻劇・明治維新”でも倧村に誉れを䞎える事は端折らない。

この倧村の登堎キャリア躍進に、坂本のキャリアが若干觊るのも觊る、ずいえば觊る。

宇和島の倧村を招聘したのは、実質桂だろうな。でなければ四囜に朜䌏しおいなかっただろう。地䞋で倧村ず盎談刀しおいた なんぞ簡易な空想も働く。

倧村もよく長州ぞの招臎に乗ったものだ。半ば死にに行く様なものだ。党おが逆転した結果になったものだから、“倧村益次郎”なのではあるが。

だが、“軍神・倧村”。勝ちの芋蟌みがなければ動かなかっただろう。ただでさえ、宇和島の四賢公の䞀角䌊達宗城に重甚されおいたのだから、そのたたポストに鎮座しおいれば自動的にキャリア䞊昇する事疑いもなく。それ以䞊の将来性を確信した、か。

しかし圌を動かしたのは 
圌の勝算ずは 

長州埁蚎招臎は倧村にずっお最倧のギャンブル、賭けでありダマを匵っお、圓おた。

抌さえたい点の挙瀺。

埌䞖の我々から芋るず、どれも戊䞊手の列士ではあるが、西郷はじめ、ほが戊の経隓のないたた戊争に突入しお功を䞊げキャリアを築いおいる事。

他者からの評※蚌蚀はありも高い戊䞊手、ずいえば西郷に高杉。だが我々は圌らを䟋えば昌倜問わず戊に明け暮れた䞭䞖期の人物ずは比べおはいけないだろう。

西郷、高杉に戊の䞊手さがあったずすれば、それは“求心力”がモノをいったのだろう。カリスマ性ずいうか。隊䌍を組む䞊で纏たり、䞀䜓感が匷かった。そしおその䜜戊に兵が玠盎に埓い呜什実行する事に柱みが少なく、偎から芋お“これは戊䞊手”、ず。

線集柳井の芋た所、この時期で最も実戊を積んでいたのは山瞣有朋なので、戊の䞊手䞋手ではなく“戊”の蟛酞・習わしを䜓で芚え蟌んでいたのは、西郷・高杉ではなく圌だっただろう。しかも戊った敵はペヌロッパ連合、そしお時の暩力“埳川”ず。倧村の茝かしさに比べお、山瞣ぞの評䟡ずいうものは実に これも傍に眮く。

倧村が長州に客分でしかも軍の統率の執行郚に圓おられたのは、今でいう“孊歎”か。軍事研究及び欧米補の軍備に関する“知識”ず“歎”の“前評”のみの刀断。遞んだのは桂かたあ䟿宜䞊桂ずしよう、この人的チョむスも倚分に危険で“賭け”である。倧䜓が、このファナティックの長州人士が“䜙所者”の倧村の蚀う事などよく聞いたな ず。この人事に賭けた桂か聞倚かそれずも、兎角盞圓な勇気ず根性のいる人遞ではある。

勝算 

この誰がどう芋おも勝ち筋の䞀条も芋えない戊に“勝算”を芋出すならば 

兵の士気が昂い事
歊噚が豊富にある事
最埌に、いや最終的に 

盞手方の情報をどれだけ抌さえおいるか

兵の意気は盛んである
小兵でも怯たぬ

歊噚の量は
そしお、埳川はどれだけの匷さなのか
どういう手を打っお来る

赎任した間もない倧村が芋るずすれば、幕府の内情に通じおる人物は 貎重であるな。欧米匏の歊噚をこちらに流入させるルヌトず仲介人は貎重であるな。それが薩摩に近い人物ならば尚䞀局、抌さえたい人間では、あるな。

✍フォロヌずいう支持、支揎はずおもありがたい。曎なる高みを目指しお『レノェむナ』をクリ゚むティブな文芞誌に育おお行きたい。🚬