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【批評めいた感想 #02】『音楽は自由にする』『skmt 坂本龍一とは誰か』『ぼくはあと何回 満月を見るだろう』

『音楽は自由にする』

坂本龍一が音楽をどのようにとらえているのか、歴史という物差しで見たときと、この内容を語られている現在地点での感覚の差分、変化の過程にある部分がとても興味深い。

大学に入ったときにはっきり心に決めていたのは、「とにかく民族音楽と電子音楽は学び倒してやろう」ということでした。ぼくは不遜な小僧でしたらか、「西洋音楽はデッドエンドだ、この先に発展はない」と思っていた。発展があるのなら勉強して進んでいけばいいけれど、もう袋小路だとしたら、西洋音楽以外のものに目を向けるしかない。外側を見ていかなくてはいけない。

『音楽は自由にする』P.88、89より

音楽家としてのデビュー以前、このように考えていた坂本龍一の先見の明に、そしてその数年後に「千のナイフ」を書いたこと、この曲が坂本龍一の音楽家像のほぼすべてを物語っていることに驚かされるし、感動させられる。

本書の終盤、『out of noise』の制作背景についてジョン・ケージの「偶然の音楽」の話を引いて語っているが、それはのちの『async』にもつながるし、高校〜大学入学以前の坂本龍一の音楽観にもつながる。坂本龍一、なんて音楽家人生だったんだろうか、と思うと同時に「音楽とは果たして何なのだろうか」と考えさせられ続ける。

『skmt 坂本龍一とは誰か』

坂本龍一というものは、坂本龍一自身も所有していない、分裂し、矛盾に満ちながら運動し続ける総体である。だからこそ、ばらばらに断片化し、それぞれが次の『種』となるように、つまり散種として記述するスタイルをとった。

『skmt 坂本龍一とは誰か』あとがき① P.377、378より

聞き手を務めた編集者の後藤繁雄がこう書いているように、本書は1996年から2006年を生きた坂本龍一の「アモルファス(結晶構造を持たない物質の状態のこと)」な状態の思考の断片を蒐集し、流動するままに本という物体に仕立て上げたような不思議な質感の書籍であり、読書体験だった。

無数の断片的な思考は固着されていないがゆえに、アメーバのように時間と空間を超えてつながりあい、なんらかの新しい意味を形成している。それを予見と呼ぶこともできるし、真理とも呼ぶこともできるだろうが、宙ぶらりんで掴みどころのない本でもあるなと思う。だがそこにこそ、飾りのない生身の坂本龍一がいるような気もした。

『ぼくはあと何回 満月を見るだろう』

会って話したことはただ一度もないが、この本には坂本龍一が宿っていることがはっきりとわかる。読者一人ひとりに時間と空間を超えて語りかけるようとする坂本龍一がいた。読み終えると悲しみや感情ではなく、感謝と尊敬の念が溢れた。

「Ars longa, vita brevis」

ある日を境に何度も何度も目にしたこの言葉が、あの日と同じように突然目に飛び込んできたとき、胸にぽっかりと穴が空いたような不思議な感覚に陥った。どうして?まだ早すぎる——そんなことをまた思った。残されたものがあまりに多い。そして、追悼は終わることはない。この本を読むということは、その終わりなき追悼に伏するということだ。なぜならここにある一つひとつの言葉に坂本龍一が宿っているからだ。



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