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#0 振り返るうなぎの10年

あけましておめでとうございます。

2012年7月1日に、うなぎの寝床は創業しました。2022年7月で10年をむかえようとしています。創業当初は、代表の白水高広、妻、共同創業者の春口丞悟、の3人ではじめた小さな活動でした。今は人数も増えグループ会社のUNAラボラトリーズ のメンバーも含めると40人を超える組織となりました。

この10年という節目をきっかけに、一度なぜうなぎの寝床がはじまったのか?どういう経緯でこのような活動に変化していったのか?を、思い出しながら記していきたいと思います。

どこから書き始めた方がいいのでしょうか?創業した時から書いた方がいいのか、大学生のころから書いた方がいいのか、僕の大学入学前から書いた方がいいのか、いろいろ迷いますが、やはり、幼少期から少し書くべきかなと思いました。

幼少期の自然で遊んだ経験、サッカーをしてきた経験、そして大学のころに建築を学んだことが、少なからず地域文化に目を向けたきっかけになっていると思います。そこにも少し触れながら進めていきます。

○幼少期に過ごした経験が今につながる?
僕は佐賀県の牛津町(現小城市)で1985年に生まれました。3歳くらいの時に、現小城町に引っ越しをして、そこから18歳の高校を卒業するまで過ごしました。今では「地域文化商社」という文化を残し、引き継いでいくべきかどうか?そのあり方を考える生態系をつくれないか?と考え仕事をしていますが、この生まれてからの18年間、文化などというワードは考えたこともなく、小学1年生のころから始めたサッカーしか頭にないスポーツ少年でした。明けてもくれてサッカーをしていました。小中高と僕は特段目立ったプレイヤーでもありませんでしたが、仲間に恵まれ全ての階級で全国大会まで経験させてもらいました。体力と基礎能力、戦術理解だけは自信を持っていましたが、特に勝つ気と勝負強さがなく、上には登りつめることはできませんでした。高校生の時は、練習と上下関係が非常にハードで苦労した記憶がありますが、その時の理不尽な部活生活に比べると、社会人というのは合理的でルールに則りながらコミュニケーションが行われ、まだ気持ち的に楽だなと思うことも多いです。

大学を卒業して気づいたことですが、実家で何気なく使っている器は有田焼や伊万里焼、唐津焼の器が多くありました。そういうものを家で使っていたからこそ、地域文化や工芸に目が向いたのかなとも最近は思います。

幼少期の経験というのは大きくて、僕はサッカー以外は山を走ったり、滝にいったり、川で泳いだり、釣りにいったり、わりと小城という土地で自然とふれあいながら生きてきたように思います。大人になって、都市で暮らしてきた人々とも出会いましたが、小城という少し閉鎖的でありながらも、自然豊かな環境で育ったことは、自分にとってプラスに働いているような気がしています。そういう意味でも、自然環境も含めた地域の文化などを、保守的な理由ではなく意識して残した方がいいと思ったのかもしれません。

体力、スポーツ馬鹿だった僕が地域文化という、曖昧なものに目を向けた理由は、幼少期の生活や遊びが影響していることは間違いないだろうなと感じています。

○高校の夏で部活が終わり受験を迎える。努力の方向0か100。
小学1年生から高校3年生の夏までサッカーに励みました。本当に朝から晩までサッカーのことのみを考えて過ごしていました。高校もサッカー推薦で行ったので本当に勉強のことなんて、全く頭にありませんでした。しかし、大学にはいくものだと思い込んでいました。僕が行っていた佐賀北高校という場所は部活がとても盛んだったので、ひたすらみんな部活をしていて、勉強なんかしてるそぶりがみんなないので、勝手に一生懸命すごしていれば、大学にいけるものと思い込んでいました。

そして、高校総体が終わった瞬間、勉強をはじめました。するとどうでしょうか?全くテストの意味がわかりません。問題の意味すらよくわからない。そして、僕が謎のテスト問題がぼやけて見えるという現象に襲われました。テストは見えないし、目がぼやけて勉強も続かないし、という期間を3年生の8月くらいから2ヶ月くらい過ごしました。テストが見えないなんておかしい!と思って親に告白すると「眼科に行ってきなさい。」と淡々と言われ、行ってみると遠視ということが判明しました。眼鏡を購入したら無事にテストが見えるようになりました。めでたしめでたし。

とはいえもう10月、僕の成績は当時のセンター試験900点満点くらいの250点くらい、国立大学などの判定はもちろんFとかばかりです。みんなずるいと思いました。みんな部活とかしながら、コツコツ勉強とかしてたんだなと思いました。抜け駆けされた気分でした。

悔やんでも仕方ないので、切り替えて、僕は中学生の教科書を引っ張り出して勉強をはじめました。勉強は本当に嫌いでしたが、数学の公式や物理の公式や、化学の現象とかは、ちゃんとみたら結構面白く、テストがやばい!という焦りによる焦燥感は常にあったものの、少しだけ自分の頭で思考していく方法論と楽しみとコツのようなものを見つけていました。

国語のテストが最も納得がいきませんでした。「作者の気持ちを次の4つのうちから選びなさい。」この問題に僕はセンター試験前まで苦戦していました。多分、問題をつくった人の回答はこれかもしれないけど、作者の人は、そう考えてないに違いない?いや、でも試験をつくった人はこの回答で間違いないだろう。行ったり来たりの思考をひたすらテスト中に自己反芻し、裏の裏の裏を書いたらこっちだろうみたいな、グルグル思考が巡って混乱していました。物理や数学は明確な答えがある程度あることがわかってきたので、なんとなく2ヶ月ほどで挽回していけたのですが、国語や英語は、僕は初期的な疑問と、語彙力の少なさ、記憶力のなさでボロボロでした。今も、そのできなかったトラウマは続いていて、仕事以外においての人とのコミュニケーション、雑談がどうやっていいのかわかりません。

仕事においてのコミュニケーションは、ある程度問題と解決策、そして、コミュニケーションの方向性が決まっているので、できるのですが、個人的な雑談とかになると「この人、こう言ってるけど、本当は思ってないだろうな。」という思考をしてしまい、全くうまく、楽しくコミュニケーションが取れません。

そんなこんなで、センター試験を迎えました。とりあえず8月からの4ヶ月くらい、ご飯を食べる時間以外のほとんど全ての時間を勉強に当て、勉三さんみたいな生活を続けてきたので、悔いはありませんでした。結論から見ると旧帝大は少し難しいかもしれないけど、国立大学くらいはいけそうかなーという感じの結果でした。この地獄のような4ヶ月の勉強はもう二度としたくなかったので、背伸びはせずに、絶対今年受かりたいと思いました。安定の判定が出た大学から選ぶしかありません。

さて。とはいえ、全然先のことを考えておらず、何学科に僕は進めばよいのだ!?とはてなマークがつきました。センター試験が終わってから考えました。僕は将来なんになりたいんだろう?もう少し事前に考えておくべきだったとは思いますが、僕はそもそもサッカーが終わった時の成績は高校でもお尻から数えれるくらいだったので、そもそも受験の資格を持たない味噌ッカスみたいなゴミのような状態でしたので、選択肢など持っておりませんでした。まずは、大学に盲目的に進むということが目的かしていました。あんまりよい現象ではありませんが。しかし、なんとか大学にいけそうだということがわかり、1月僕は考えました。

○大学で建築学科を選ぶまで、なんで建築なんだろう?
そういえば中学校から一緒だったサッカー部の友達K君が「おい(佐賀弁で僕)は建築に行く!」と高校1年生のころから言っていて、なんかわかんないけどかっこいいなと思っていました。なぜかっこいいと思っていたかは今では不明ですが、少し頑固なところがあるK君に、僕が少し憧れを持っていたのかもしれません。(結局、この友達は理学療法士になりました。笑。。。小学生のころ、僕は野球をやりたかったのですが、サッカーに友達が誘ってくれ、結局その友達はすぐサッカーをやめ、野球部に入部しキャプテンになっていきました。人生とは多分そういうものなのでしょう。)

建築も悪くないかもな。僕の頭にこういう思考が浮かんできました。なぜか?そもそも、僕は実家の間取りに疑問を持っていました。実家は玄関を入ると、廊下を通して、リビングダイニングがありました。そして、その奥に子供部屋があったのです。リビングダイニングを入る前の廊下にトイレや風呂が接続していて、トイレにいくにも、風呂にいくにも、何するにもリビングダイニングを通らなければなりません。兄弟喧嘩したときも、親に反発をしてイライラしている時も、トイレに行きたかったらリビングを通らなければならない。この間取りを常に理不尽に感じ、不満を抱いていました(大学の時にわかったのですが、この間取りは父が大学の先生に相談しながら決めたものだったようです。まんまとやられた気分でした)。

僕は、K君への憧れと、この間取りへの不満解消(特に大学に入っても間取りが変わるわけじゃない)という、2つのさして強くもない動機をもとに「建築学科」へ行こうと決めました。大学の学部をみなさんどうやってきめるのでしょうか?多分、このくらい曖昧なものでしょう。

僕はできれば、佐賀から離れたくなかったから第一候補は佐賀大学!そして工学部の中を調べてみると、なんと土木科しかありません。僕は佐賀大学に行くと思い込んでいたのに、まさかの建築学科がないなんて!この事実により、佐賀に残る選択肢は失われました。九州の建築学科がある国立・県立大学を調べてみると九州大学、熊本大学、熊本県立大学、大分大学、鹿児島大学等。九州大学はBとCの間くらいの判定で、僕は浪人なんて絶対したくなかったから選択肢からはずしました。熊本大学はB判定くらいだったように記憶していますが、こんな勉強漬けの生活はもう二度と嫌だ、浪人回避思考から選択肢から外しました。鹿児島大学は遠いから削除。残っていったのは熊本県立大学と大分大学。なんとなく県立とか国立とかいまいちわからなかったけど、国立大学へ行かねば学費も安いしみたいに決めつけていた(県立もそんな多分変わらないよね)ので、大分大学に自然と決まっていきました。このような大学選びは今思えばあまりよくないとは思いますが、そのようにして僕の大学選びは決まっていきました。大分大学はA判定が出ていたので、対策はしながら、無事合格を決めました。めでたしめでたし。

僕は無事大学に入学を決めました。はじめての一人暮らしです。

○次回は大学生の時のことを
大学で建築的思考をインストールし、僕は都市計画的な観点、リノベーション、そしてデザインに触れていくことになります。春口(ハル)とは大学3年生の時に出会った仲間です。うなぎの寝床は26歳の時にスタートしましたが、僕らの思考の大半は大学生の時にできたものだと認識しています。次は、大学生の時のことを記してみようと思います。

つづく


本質的な地域文化の継承を。