僕らは何度も同じことを唱え続けて伝える努力をせねばならないと感じた8月

人間というのは、飽きと慣れというものが襲ってくる生き物なんだ。僕は久留米絣という織物に携わりはじめて、もう10年が経とうとしている。それなりに、久留米絣、または絣という技術について知り深めてきたつもりである。

であるが故に、面白がれるポイントがマニアックになってきて、一般の人からは感覚的に遠ざかってきたのであろうと思う。最初は単純に織物ってこんな感じで作ってるんだ!知って欲しい!とか、そういう感動を伝えるという役割だったんだが、今は産地の現状や会社、様々な事情もわかりつつ、超いいところや、また劣っている点も見える。だから変にすごい!とかそういうことも言えなくなってきた。

しかしながら、僕らは久留米絣の着心地の良さ、そしてインドで発祥したikat(英語でイカットというのは絣の技術のこと)という技術のこと、沖縄に1400年ころに入ってきて、琉球王朝によって柄が確立し、そこから全国に広まっていったこと、みなさんが普段着ている服というものが、どうやってつくられているのか?それにはどういうルーツがあるのか?

など、素朴な基本的なこと(すでにマニアック感はあるが)から、毎年毎年唱え発信し続けなければならない。そして、ただ発信するだけではなく、時代に合わせたツール、時代に合わせた言葉、時代に合わせたタイミングで伝えなければならない。それをできなくなったら、僕らみたいな翻訳的な仲介的な仕事は意味をなさなくなる。それを肝に命じなければならない。

久留米絣だけに限った話ではなく、様々なものづくり、農業、工業、商業、全てにおいて、丁寧に、生活者の人たちに現状や分脈、未来の方向性を一緒に描けるような伝える努力をしなければならない。それを感じた8月であった。

うなぎの寝床 白水
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本質的な地域文化の継承を。