heldioリスナーに届けるしおのはなし#7 令和6年5月14日「項羽と劉邦」にみる塩の大切さ

 紀元前3世紀。秦の始皇帝がはじめて中国全土を統一する。しかし、厳しすぎる統治ゆえに始皇帝が世を去ると各地で反乱が起きる。その中に、楚の項羽と、漢の劉邦がいた。項羽は楚の名族という家柄で武芸にすぐれ、劉邦は農民出身で遊侠無頼の類だがどこか魅力があり有能な人材を擁したという。この二人が秦を滅ぼし、覇権を争うことに。ちなみに、楚漢戦争とも呼ばれる二人の争いは、国士無双、背水の陣、四面楚歌など多くの故事を生み出したことでも知られている。
 さて、この二人を描いた司馬遼太郎著「項羽と劉邦」には次のような場面が出てくる。
 項羽と劉邦の争いも終盤。項羽の侵攻を防ぐために、劉邦は転戦しながら常勝を続ける韓信に北方征討の命をくだす。それを受けて韓信は魏を平定、さらに趙へ向かう。趙の実質的な支配者である陳余は、他国にも知られる知将・李左車の助言に耳を貸さず、兵の多さを過信して真正面で韓信の軍を迎える。対する韓信は主力軍をあえて抵水(川の名)の前に配置。「背水の陣」である。退路を断たれた兵は死に物狂いで戦い、その間に韓信が用意していた伏兵が趙軍を背後から襲って勝利を収める。
 陳余が処刑されたのち知将・李左車が引き出されると、韓信は「あなたに師事したい」と縛を解き、李左車を東向きに座らせ、師弟の礼をとって本人と周囲を驚かす。
 数日後、次の斉の攻撃について韓信が李左車に相談すると、兵の休養と補給の整備を備えることを進言。韓信がそれを受け入れると、李左車はその言葉どおり、宿営地の割当、食料の輸送などを着々と進めていく。そんな中、とにかく凶暴で敵味方関係なく傷つける兵が自軍にいた。檻に入れるもなお暴れていたのだが、いつの間にか穏やかになった。
 不思議に思った韓信がそのわけをきくと、李左車は「食事から塩を次第に減らしていっただけです。」と言ったという。そして、司馬は作品の中に次のように付け加える。「塩分が少なくなると、人間は元気がなくなるという当たり前のことを李左車は兵士の統率の技術にしていた。狡猾なほどの知恵であった。当人に元気がなくなったところへ、郷党の同僚に説得させるのである。」
 戦がはじまる前には兵にたくさんの塩を与えて気力を養い、戦が終わると塩を減らして無気力にして、占領地における秩序を守る(婦女子などへの危害を防ぐなど)といったことは、智者の常でもあったようだ。ちなみに、日本においても、抵抗や脱走を防ぐ目的から囚人には塩抜きの食事を与えていたという。そこには塩と人間の切っても切れない関係が垣間見える。

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