⑤小学生の私は、完全に忘れられた。
母の病状は、良くなったり、悪くなったりを繰り返していたけれど、ある時期を境に目に見えて回復し、とても活動的になった。きっかけは、心配した母の郷里の伯母たちが勧めてくれた宗教だった。
母は見違えるように元気になり、毎日のように宗教施設や、婦人会の集まりに出かけた。
満足な医療を受けられなかった母にとって、そこで会う人たちは皆、親身になって話を聞いてくれるカウンセラーのようなものだったのだろう。たくさんの人に共感され、慰められるうちに母は、少しずつ「普通の人」になっていった。
家の宗教と違うという理由で反対していた父も、明らかな母の回復を見て、黙認せざるを得なくなった。何もかもが、うまく回転しはじめていた。
そして、小学生の私は、完全に忘れられた。
母は出かける際、神経症的に家中のすべての鍵を何度も何度も確認し、隙間なくぴっちりとカーテンを閉ざす。
私は入学前から鍵を一本渡されていたけれど、何度も何度も持って出るのを忘れ、帰宅して自分の失敗に気付く。
小学生になったばかりの私は、玄関の前の石段に座ってずっと待ち続けた。誰かが帰宅して鍵を開けてくれる瞬間を。暑い日も、寒い日も。雨の日には庇の下で。
そのうち近所のおばちゃんが通りかかる。
あら、ちえちゃん、どうしたの? 入れないの? かわいそうに。
ちえちゃんのところは、お母さんがアレだからねぇ。
私はかわいそうな子だと思われたくなくて、必死でニコニコした。
いいえ、大丈夫です。
一人で、大丈夫です。
本当に、大丈夫です。
夕方の時間、どこの子どももそうであるように私もまた、いつもお腹がすいていた。
運よく鍵を持っていた日は、家に入るとすぐに、冷蔵庫のきゅうりやトマトを洗いもせずにそのまま食べた。好物だった訳ではない。そのまま食べられる物なら何でも良かった。
頂き物の、洒落た洋菓子やクッキーなんかも目にする機会が多かった。百貨店の小包を見つけると私は、勝手に開封し、手も洗わずに缶ごと食べた。
そもそもその辺に雑に置かれていたものだから、勝手に開封しても、何なら完食してしまっても、咎められたことは一度もなかった。
家は裕福だったので、キッチンへ行けば食品は豊富にあったけれど、それでも私の食べるものはなかった。
そしてそのことに、誰も気付かなかった。
今でもぼんやりと考えることがある。
比喩ではなく、私は本当に透明だったのかも知れない、と。本当に、誰の目にも見えてなかったのかも知れない、と。
私はネグレクトのサバイバーなので、誰にも構われず、関心を持たれず、もちろん愛情を注がれずに育ったのだけれど、それは言い換えれば、広大な自由な広野に放たれたのだ、 とも言える幼少期だった。
たとえどれほど努力しても、結果を出しても、両親から誉められたことはなかったけれど、その反面、成績や、日常の細やかなあれこれについて、叱られたことも、またなかった。
その点において私は、必要以上に干渉されたり、思い通りになる人形のように支配される辛さや、苦しさを、本当の意味で知らない。
これこそが、私の子育てにおける大きな盲点だったのだろう。
まるで透明人間のように無視され続けた私は、その悲しさや苦しさゆえに、逆の干渉される苦しさについては、全く思いが至らなかった。
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