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それでも、毒になる親 11.連鎖の向こう

「毒親」という言葉はすっかり定着し、すでに言葉だけが一人歩きをしている。その果てに、人生の不条理や現状への不満はすべて親に起因する、という考え方さえ見られるようになってきた。

マスコミなどで取り上げられる「毒親」の典型的なパターンは、主に次のようなものだろう。

①肉体的暴力や性的暴力を振るう親(体罰やしつけと称した折檻をする)
②精神的暴力を振るう親(暴言などで否定・不安を子供の心に植え付ける)
③ネグレクトする親(子供を放置して関心を持たない)
④過干渉する親(子供の行動を監視して先回りする。自主性を奪う)
⑤価値観への同意・強制を求める親(自身の勝手な価値観を押し付ける)

これらの中で、①②③については比較的わかりやすく、このような振る舞いを擁護する人は少ない。

けれども④と⑤については、境界線がとても難しいように思う。

一般的には害になるような関わり方であっても、子どもの個性や特性によっては、一様に虐待だとは片付けられないと思うのだ


私の子どもは幼い頃、その特性からか、何の制約もない自由に対しては、いつも極端なまでに不安に陥った。

「どうしたい? とか、何でも自由にしていいよ、とか言われると頭が真っ白になる。どんなに考えてもわからないし、考えること自体が辛すぎる」と話す。

A、B、Cくらいの選択肢まで、あらかじめ絞りこんでから、どれがいい? と尋ねると、子どもは自分の意志で決定して主張できた。自分で決めたのだ、という自己肯定感も得られた。


そんなこともあり私は、少しずつ陰でリードしようと考えた。不安で心が押し潰されてしまうよりはマシだったし、何よりも本人が強く望んだからだ。

けれども、今にして思えばそれは、支配やコントロールと紙一重の、とても危うい判断だった。必要なリードと、してはならない支配との境界線は、子どもの個性だけではなく、年齢や成長によっても変化する。

やがて子どもは、私から「支配される」ことを拒み、自分で考えることの恐怖や不安を、友達を「模倣する」ことで解消するようになった。


いつの時代にも、その時々で正しいとされた価値観が存在してきた。けれどもやがて時の流れとともに、それらは少しずつ変化していき、いつしか潮目を迎えると、さながらオセロのように評価が逆転する。

それでも、人と人とが関わり合って生きていく社会には、いくつかの、普遍的で変わらない価値観が歴然としてある。

人をいじめてはいけない。
人を叩いたり、蹴ったりしてはいけない。
人の物を盗んではいけない。

これらのような一定程度の社会規範は、やはり親が責任を持って教育する義務があるのだと、私は今も思っている。

けれども私の、それらを教える姿勢に問題はなかったか。正しいものは正しいのだと、有無を言わさず押し付けたのでは、真意は決して伝わらない。

私の一人よがりな正義感に、子どもたちは委縮し、怯えたり、迎合したりするようになった。そうしてやがては、心に見えない傷を負わせることになってしまった。


私は自分が、被虐待児だという自覚を持っていた。自覚して教訓にしているのだから、子どもたちに連鎖など決してするわけがない、と確信していた。

けれども事は、そんなに簡単ではなかった。情緒的ネグレクトを受けてきた私には、子どもを育てる上で、最大限に欠けていたものがあったのだ。

それは、子どもが人生の折々で転んでしまった時、何よりも先にまず、痛かったね、怖かったね、もう大丈夫だよ、と抱きしめることだった。

子どもに慌てて絆創膏を貼ることよりも、二度と転ばないように道の石を取り除くことよりも、まず優先すべきは、共感して抱きしめることだった。


私はずっと、子どもたちが転ばないように、怪我をしないようにと、細心の注意を払って子育てをしてきた。

けれどもどんなに注意しても、工夫を凝らしても、子どもには、思わぬ事態が降りかかり、時には自ら転んでしまう。

もちろん責めてはいけない、という知識も、理性もあったから、必死で隠してはいたけれど、きっと私は無意識に、残念そうな顔をしたに違いない。

あまりにも未熟だった私は、子どもを抱きしめるよりも前に、転ばせてしまったことに自分自身が傷付いていた。


子どもたちはすっかり大きくなり、もうすでに巣立っていった。日常的に顔を合わせることも、話をすることもない。余程のことがない限り、私から連絡を取ることはしない。

かつて、傷付いた小さな女の子だった私は、やがて成長し、母親になった。「してもらったことがないから、できなかったのだ」などという弁解は、もうよそう。

その当時は、子どもの少し変わった特性や、強いこだわりは、「母親が」「甘やかし過ぎ」た結果であり、集団に適応できるように、学習についていけるように「家庭において」補って、努力することを求められた。

はたして私が「毒親」だったのかどうかは、子どもたちが決めることなのだろう。

子どもたちには、幸せに生きていって欲しい。
それは何も、私の思う幸せでなくてもいい。
そして人生に迷ったら、遠慮なく頼ってくれれば嬉しい。
もしも心に隔たりがあるようなら、たくさんの父や母(と思えるような、信頼できる人)と巡り合い頼って欲しい。

そして私は、残された自分の人生を精一杯、生きるしかない。
それが逆説的に、子どもたちへの贖罪となるのだと信じて。


5月のある晴れた日、子どもから突然、私の元へ贈り物が届いた。それは、薄く削った石鹸をカーネーションの花びらに形作った、ソープフラワーのブーケだった。

私は、思いのほか軽い、ブーケの入った箱を抱きしめたまま、その場にしゃがみこんだ。

それがたとえ、ふとした気まぐれであっても、ありきたりなイベントの、形式だけのものであったとしても構わない。

私はただ、素直に、心から嬉しかった。


私は、なりたかった私になろうと思う。
もう一度、はじめから。

ソープフラワーのブーケが、清涼な香りを放っているこの家で。

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