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①私は、望まれなかった三女として、誕生した。

私が生まれた家は、名のある老舗でもなければ、伝統芸能の家元でもなく、もちろん引き継がせるほどの大した資産も、家名もない。

それでも父や親族、周りの多くの人たちは頑なに、男子の跡取りを切望した。娘二人を出産した後、流産も重なって、大きなプレッシャーを受け続けた母は、追い詰められ、少しずつ体調を、そして心のバランスを崩しはじめた。

私が生まれる前の話なので詳しくは知らないのだけど、はじめは軽いアレルギー疾患だったのが、やがて気管支喘息へ。そしてあっという間に重症化していったらしい。

頻繁に起こる喘息発作。塞ぎこんで起き上がれない日々。やがて母は少しずつ、予測のつかない行動をし、意味の通らないことを口走る回数が増えていった。

当時の精神医療では、ひとたび精神疾患の診断がおりてしまうと後は、閉鎖病棟への入院と薬物投与しかなく、多くは生涯、社会復帰することは叶わなかった。そんな背景もあり父は、母の精神疾患を伏せ、専門医療から遠ざけた。家の恥だから。娘の縁談にひびくから。

超音波検査もない時代。最後に生まれた私が期待通りの男子でなかったことは、母の病状を、なお悪化させた。

私は、望まれなかった三女として、誕生した。

年代的にも、地域的にも、そうした跡取り思想、男尊女卑思想が色濃く残っていて、その淀んだ水の中の共同体では異を唱える人もなく、私はゆっくりと、誰の目にも映らなくなっていった。

そうして私が三歳になる少し前に、父は田畑に囲まれた郊外に家を建てた。

それは、母の喘息治療に決め手がなく、空気の綺麗な郊外への、言わば転地療養の意味合いも兼ねていた。そして、父が会社を株式会社にしたことで、それまでの事務所と一体だった家族の住居を移す必要もあった。

注文建築で一から作ったその新居には、ニ階に子ども部屋がニつ。はなから私の部屋はなかった。私が生まれる前に建てた家ならそれもわかるけれど、父は私が大きくなるとは思ってなかったのだろうか。

その家には、大きくて豪華な応接間や、床の間のある続き間の座敷などがあったけれど、私の居場所はなく、私は庭に面した廊下の一角の少し広いスペースに布団を敷いて眠った。

中学生と高校生の姉は自分のことで手一杯で、幼い妹に関わっている余裕などない。

私が「お姉さん」と呼びかけると、二人は「⋯⋯⋯⋯お姉さん、だって!」と、クスクス笑い合う。大人たちの真似をして、それぞれの名前をさん付けで呼ぶと、生意気だと叱られる。「ちえから何を言われても無視するゲーム」も度々行われ、それがいつ始まり、いつ終わるのか、私にはわからない。

やがて私は、姉たちに話しかけることを諦めた。母は大抵、具合が悪く、床についていることが多かった。父は事業が波に乗りはじめ、家にいることが少なかった。

私はその家で多くの時間を、一人で過ごした。

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