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⑪人には、幸せにならない権利すらある。

小学校入学の健康診断で、私は、虫歯があまりにも多いと指摘された。

学校の生活指導で正しい歯の磨き方を学習するまで、そういえば、歯を磨いた記憶がなかった。こうやるんだよ、と教えてくれる人は、周りに誰もいなかった。

幼少期に身につけることのできなかった生活習慣を、後から自力で補うことはとても大変で、一つ一つ苦労して積み上げていくしかない。

最初はズキズキと時折、襲ってきた歯の痛み。それが次第に頻繁になり、やがて痛くて痛くて、どうにもならなくなる。私は一人で近所の歯科医を訪ね、いつから、どこが、どのように痛いのか、自分で説明した。

虫歯治療には、その後の人生の長い期間、周期的に通わなければならなかった。

時が流れ、私が母親になった時、定期的な歯科検診は育児の常識になっていた。虫歯になってから受診するのではなく、三ヶ月に一度、検診を受ける。

小児歯科の先生は、うちの子たちを診察するたび、

虫歯がありませんね。虫歯ゼロは本当に珍しいですよ! と目を丸くした。

三度の食事とおやつの時間は、毎日一定に決めてください。おやつはできれば手作りで、おにぎりか甘くないクッキーを。水分補給は水かお茶。甘いお菓子やジュースはできるだけ控え、だらだらと食べたり飲んだりさせないように。

保健師や小児科医の言うことは、どれも理想論に過ぎなかったのに、私は何とか応えようと努力し、それが正しい育児だと信じた。

そして言われたことを懸命に守っていたら、子どもたちは虫歯にならなかった。他の家庭はそうではなかったのか? 比較する友人も知人も、私にはいなかった。

したがることをさせ、欲しがる物を与えることと、虫歯ゼロは共存しない。私は、自分が苦しんだ虫歯との長い戦いを、子どもたちにはどうしてもさせたくなかった。

私の幼少期はネグレクトだったのだ、と、今は思う。けれども、私の父が、母が、いわゆる毒親だったのか? その問いに対する答えは出ない。 

自分が、親から何もしてもらえなかったから、子どもに同じ思いだけはさせたくなかった。だからと言って、よく耳にするように、勉強さえできれば何をしてもいい、とか、何が何でもプロスポーツ選手になれ、とか、そんな馬鹿なことは強要していない。

私はただ、同級生をいじめないとか、ご飯を美味しく食べるとか、近所の人に挨拶できるとか、そんなふうに育って欲しいと願っただけだった。

やがて親元を離れ、自立してからの長い人生を、できるだけ幸せに生きて欲しいと⋯⋯⋯。

子どもたちに背を向けられて、そう嘆いていた私に、ある人が言い切った。

私は、あなたの子どもさんの辛い気持ちがわかる、と。
子どもに、幸せになって欲しいと願うことだって、ただのあなたのエゴだよ、と。
極端な言い方をすれば、人には、幸せにならない権利すらあるのだから、と。

私は、ただ息を飲み、何も言い返せなかった。

「あなたのためを思って」を連発し、それがあたかも免罪符であるかのように子どもを支配する、多くの親たちと、自分は決して違うと思ってきた。

でも、本当に違ったのか? 幸せになって欲しい、という、支配はなかったのか? 「私の思う幸せ」に、なって欲しかっただけではないか? 

感情に寄り添って認められることを知らずに育った私は、情緒的ネグレクトなのだそうだ。

そしてその虐待を、まったくの無自覚に、何なら正しい育児をしていると思い込みさえして、私は連鎖していた。

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