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②もちろん、神様は、助けてくれない。

新しい家に引っ越すとともに、私は、家から一番近いカトリック糸の幼稚園に通うことになった。家のすぐ近くまで送迎バスが来て、電車の駅三つ分ほど走ったところに、その幼稚園はあった。

幼稚園では、賛美歌の時間、聖書の時間、お祈りの時間などがあり、普段の遊びも年中行事も全て、信仰に深く根差したものだった。

偶然とは言え、こうして私は神様と出会った。

私の家は代々の門徒だったが、父は子供の幼稚園程度のことと甘く見ていた。だから私が神様の話をしても、天にまします我らが父よ、と、祈りの言葉を口にしても、特に反応を示さなかった。

けれども多感な年頃だった姉たちは、いつもあからさまに嘲笑した。
「神様だって!」「変なの」「馬鹿みたい!」
私が何か言うたびに、ゲラゲラと笑い飛ばされた。私は次第に、これらのことが、人から侮蔑される行為なのだと学んでいった。

心の病と喘息発作に悩まされ続けた母に、見かねた伯母たちが勧めたのは、ある宗派の違う仏教だった。この信心によって、当初は母の病状が劇的に改善したため、父は長く黙認していた。

けれどもやがて、母の信仰への依存がひどくなっていく。

またもや体調を崩すほどにのめり込み、期待したような、家事をこなせる状態にならなかったことから父は一転、怒り、弾圧しはじめた。

ある時期、私の家は、宗教戦争の様相を呈していた。

こんなものは捨ててしまえ! と、経典を破り、引き裂き、本や仏画を庭先へ投げ捨てる父。泣き叫び、言葉にならない言葉で必死に抗議して、それらをかき集め、取りすがる母。

私は隣室で小さくなって、神様が助けてくれるのを待った。心の中で何度も何度も神様を呼び、この修羅場が終わるのを待っていた。

仏教同士の宗派の違いを巡る争いを、神様が収めてくれるのか? 今になって考えれば笑えるような話だけれど、幼かった私は、目の前で繰り広げられている光景を心底、恐れ、怯え、一人で繰り返し祈った。

もちろん、神様は、助けてくれない。

私はやがて、沈黙する神様に失望し、また一つ諦めることを学んだ。

子ども時代、ワクワクしながらサンタクロースを待った経験がない。誰に聞いたわけでもないけれど、そんなことは起こらないことを、私は知っていた。ご馳走やケーキを囲み、家族揃ってクリスマスを祝ったこともない。

母になった私は、子どもたちのために見よう見まねでチキンを焼き、ケーキを買い、プレゼントを用意した。それはいつも手探りで、「世間並のクリスマス」をちゃんとやらねば、と必死だった。

本音を言えば、サンタさんが来てくれるよ! というファンタジーに辟易していたし、かなり無理をして楽しんでいるふりをしていたけれど、繊細で多感な子どもたちには見抜かれていたのかも知れない。

息子は後に、楽しい思い出など何一つない! と言い放った。

親からされて嫌だった経験は、自分が子どもを育てる時には決してしないでおこう、という教訓となる。

けれども、経験しなかったことは? 

私は子どもを育てることにおいて、圧倒的に、家族との触れ合いの経験がなさ過ぎた。

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