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⑬話しかけても、返事をしてくれる女子はいなかった。

ずっと遠いところにいた母の心が、ゆっくりと帰ってきていた。姉たちはとっくに独立していた。そして、父の事業はうまくいかなくなって、気付けば、昼間からアルコールを飲んでいる姿も珍しくなくなってきていた。

私は、中学生になった。

中学校は弁当持参で、ようやく日常生活を取り戻しはじめた母が作ってくれた。相変わらず顔は合わさなかったけれど弁当は、毎朝、玄関の靴箱の上に置かれていた。

母の作った弁当は、夕べの残りの菜っ葉やこんにゃくがおかずで、そのだしが、ご飯に茶色く染み込んでいたり、崩れた目玉焼きみたいなものが毎日入っていたりして、クラスメイトは容赦なく笑う。

笑われるのは辛かったけれど、それは紛れもなく私のために用意された弁当で、もうそれだけで胸が苦しく切なくなって、母に文句を言ったことはない。

生活態度が真面目で、成績も良かった私は、中学校でもやはり教師に気に入られ、いろんな委員をしていた。

他にも委員はいたけれど、担任に指名され、学級会の議事進行役をよく任された。

教壇に立つと、ほんの少しの段差なのに教室中がよく見えて、頭に力ァッーと血が上るのがわかる。
みんな好き放題、話していて、誰も私には注目してくれない。

「静かにしてくださぁい! 聞いてくださぁい!」
私は声が枯れるほど張り上げるけれど、ざわめきは止まず、離れて見ている担任が舌打ちして、男子のリーダーに目で合図する。

「おい、お前ら、聞いてやれよ」
彼の一声で、教室は静まりかえる。
気を取り直して、やっとの思いで私が話し出すと、また前以上にざわめき出す。

こんな茶番劇が、幾度となく繰り返された。

担任教師は、班長や委員を集めて毎日、ランチミーティングをし、私はクラスメイトの女子たちとお昼を食べる時間も、話す時間もなくなった。

ある朝、登校すると、クラスの女子たちが皆、お揃いのキーホルダーを鞄に着けていた。

それらは同じデザインで、何色かあるらしく、どの色がかわいい、似合っている、と、互いに褒め合っていた。日頃少し浮いている子も、楽しげに会話の輪に加わっていた。

目の前で、何が起こっているのか、私はうまく理解できなかった。

そのころにはもう、私に話しかけてくれる女子はいなかった。
話しかけても、返事をしてくれる女子はいなかった。

見事な統率力で女子全員が揃え、私はそれが、どこに売られているのかも知らない。

今でも私は、その朝の、目の前の景色がぼやけるような、耳の奥深いところでキーンと嫌な音が鳴るような、あの感じを、きちんと忘れ去ることができない。

家に帰れば、明らかに飲み過ぎた父が待ち構えていて、赤ら顔で怒鳴る。
遅い! こんな時間まで、学校があるわけがない!
委員会が……と言いかけると、
女だてらに何が委員会だ! と、もっと怒鳴られる。

そんな時には決まって母が、突然、割り込んできた。母なりに、私を守ろうとしてくれたのだろう。
私の産んだ子をいじめないで! と、金切り声を上げる。

お前が悪いから、こんな出来損ないの娘になったんだ! 女のくせに! 女ごときが!
父は余計に激昂し、時には暴力になった。

私の存在を思い出した父は、私の理屈っぽい言動が気に障り、出来損ないの娘だ、と罵る。
私の存在を思い出した母は、三女を長年、大事に育てたことに記億が変わっていた。

私が学校で毎日、クラスの女子の誰ともしゃべらずに過ごしていたことを、両親は知らない。

私は今も、たくさんの人の前で話そうとすると、パニック発作に襲われる。ひどい動悸と息苦しさ、そして目眩と過呼吸。人の多いところは今も怖い。繁華街も。駅や電車の中も。

私は今も、自分だけが仲間はずれにされているのではないか、という幻想に取り付かれている。

みんなが知っていて、自分だけが知らないルールがあるような。どんなに努力しても越えられない、見えない壁があるような。

子どもを育てる上で、子どもたちが、いじめられるのではないか、仲間はずれにされるのではないか、という不安が、いつも心に暗い影を落としていた。

良いことでも悪いことでも、目立つことが、いじめに直結する。息を潜めて、目を凝らして、注意深く、周到に立ち回っても、それでも私の想像を遥かに越えた、思いもつかない観点で、子どもたちは標的にされた。

私にとっての子育ては、常に恐怖と背中合わせだった。

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