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⑨私は一人むせながら、むきになって食べた。

時代は1970年代。私がまだ小学生だったある日、父が会社の従業員やその家族を招いて、ガーデンパーティーをしたことがある。

父の自慢の庭に沢山の長テーブルを運び入れ、白いクロスの上には、寿司桶やデリバリーの料理の数々と、ビールやジュース。多くの大人たちが忙しそうに朝から出入りして、私も何だかワクワク、そわそわしていた。

親族経営の会社だったから、従業員と言っても叔父さんや叔母さんなど見知った人が多く、従兄弟たちもたくさん来て、私にとっては華やいだ1日だった。

こういう時の常として母は表には出ず、ずっと台所にいて、手伝いの女性が下げてくる食器を洗ったり、ビールがなくなると廓下まで運んだりしていた。

私を含めて何人かの小学生が、そろそろ退屈しはじめていたころ、台所から母が手招きした。

腹が減ったでしょう。これでもお食べ。

一人に一つずつ、お湯を入れたカップヌードルとプラスチックのフォークを渡された。

そこにいた誰もが、カップヌードルを食べたことがなかった。発売されてまだ間がなく、ことに私が育ったような地方では、実際に食べたことのある人は稀だったと思う。

母はこうした新しいものを、深く考えずに取り入れるところがあった。珍しい、とか、新しい、とかに目がなかった。

そしてそのこともまた、思慮浅いとか、軽薄だとか、親類や父から軽んじられる一端にもなっていた。

子どもたちはみな、周りを見ながら、不器用にフォークを差し込んだ。

ー口すすってみて私は、変な味! と思った。

お湯の量が悪いのか、温度が悪いのか、時間が経ち過ぎてのびていたのか、皆一様に変な顔をしていた。

そんなもたもたしている様子を、叔母が見咎めた。

何、食べてるの? 
こんな変なもの、食べるのはやめておきなさい。
さあ、おばさんに返しておいで。
と、息子たちを促す。

無言で、食べかけのカップヌードルをつき返された母は、口に合わんかったかな、と一瞬、悲しげな表情を見せた。

私は一人むせながら、むきになって食べた。

おいしいとは全然、思えないそれを、とにかく完食しなければ、と思った。必死だった。

父方の親類の中で、母がどう思われているのかは、幼い私でさえも薄々気付いていた。

辺鄙な田舎の、親のない貧乏な家から嫁いできた。そのくせ、跡取りも産めなかった挙句、精神病になった。

偏見と、差別と、いわれのない侮辱。

それは、望まれない三女である私に対しても、向けられる視線は同じだった。

私は咄嗟に、悲しげな表情を見せた母をかばいたいと思った。

けれどもその反面、ハンバーグや餃子を手作りする、この叔母に憧れてもいた。

侮蔑に満ちた、大人たちの空気感。
本来、パーティーのホステス役であるべきはずの母の、台所での姿。
眉をひそめて、気味の悪い物を見るかのような叔母の表情。
必死で完食したスープの味。

あの日、変な顔をして、言われるがままに食べかけのカップヌードルをつき返した従兄弟たちは、その後の人生で、カップ麺を食べることはあったのだろうか。

私はその後、カップ麺の類いをほとんど食べることなく成長した。

けれども時代は真逆に進化して、カップ麺はー大市場をなし、たくさんのメーカーがしのぎを削り、今や堂々たる国民食となった。

その後、母になった私は、どうしてもカップ麺を子供たちに食べさせることができなかった。いろんな麺類を家庭で調理したけれど、お湯を注ぐだけのインスタント食品だけは選ばなかった。

それはきっと、あの日の叔母の不審気な表情に、私自身がいつまでも囚われていたからだろう。

後に息子は、俺は、小学校を卒業するまでカップ麺を食べたことがなかった! みんなが食べているのに、俺だけは食べたことがなかった! これもまた虐待だった! と言い募った。

私は、自分が非力であっても、偏見の目にさらされている母を守りたかったのか。

それとも、自分が非力だからこそ、そこから逃げ出したかったのか。

憧れていた叔母を仮想母として慕い、その挙句、我が子の気持ちを考えることなく、独善的に暴走してしまったのか。

そのどれもが当てはまり、結局私は、自分の価値観を子どもに押し付けた、と言われても仕方がない。

私は今なお、どんなカップ麺も、おいしいと思って食べたことがない。

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