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この空を飛べたら

芝生の庭のある、新しい家に引っ越したのは、私が三歳の誕生日を迎えた頃だった。
ほどなくして母は体調を崩し、座敷の一部屋は事実上、母の病室となる。

翌春に入園した幼稚園へは、送迎バスで通園した。家から百メートルほどの四つ角が、バスの発着場だった。
賛美歌、聖書のお話、お遊戯。
配食のお弁当を食べたら、帳面にシールを貼ってもらって、帰りの歌。
バスを降りた後、一人で家に帰ることにも、私はすぐに慣れた。

午後の長い時間を私は、いつも家の中や、芝生の庭で過ごした。
庭には、季節に応じていろんな生き物がいた。
蝶やカマキリ、蝉、トンボ。時には、とぐろを巻いた小さな蛇にも出会う。
窓ガラスに張り付くヤモリや、壁で動かない、手の平大の大きな蜘蛛。

それらすべての生き物と、仲良くなれた訳ではなかったけれど、それでも怖いという気持ちはなかった。
「あら、こんなところにいたの?」
「今日は元気いっぱいだね」
なんて話しかけてみたり、そっと捕まえてみたり。
エノコログサやぺんぺん草、シロツメクサを摘んでみたり。
自然はいつも身近で、そうしてとても優しかった。


夕刻に、薄暗い応接室に入って電気を点けると、視界の端をシュッと何かが横切る。
例えるならそれは、小さなオバケが「ヤッベェ……」と呟きながら、急いで物陰に隠れるような感じ。
幼い私は特に疑問に思うこともなく「あ、いたんだ」と思う。

確かに気配はあるのに、その正体は決して見えない。
シュッと隠れた方向を丹念に探しても、もちろん見つからない。

👻

こんな感じ。たぶん。見たわけじゃないけれど。

だから私はいつも、誰もいない部屋に向かって「大丈夫だよー」と声をかけていた。
出てきてくれたらいいのに。ちっとも怖くなんかないのに。

床下や天井裏にはきっと、小人たちが住んでいると、幼い私は信じていた。シュッと隠れてしまう👻と、小人たち。
見たことはなくても、想像するだけでワクワクした。


家の真ん中には、二階へ上がる十五段の階段があった。
どんなきっかけからだっただろう。
私は何故か「飛べる!」と思ったのだ。

最初は、一段上ってピョンと降りる。二段、三段と上ってはピョン。全然、平気だ。
とは言え階段の真ん中あたりからは、さすがに緊張したことを覚えている。それでも私の体は、とても軽い。

階段を上り切って、後ろを振り返り、下を見下ろす。
途端にふわりと体が浮いて、頭が天井に近づく。咄嗟に手を伸ばすと、簡単に触れた。木目の感触。ゆっくりゆっく下降して、やがてストンと着地する。
浮遊感が楽しくて、私は何度も繰り返し、飛び降りごっこに興じた……はずだ。

はっきりと、記憶があるのだ。
……けれども、すっかり大人になった私は、いくら幼児の体重が軽いからといって、十五段の階段を飛び降りて無傷でいられるはずがない、とも考える。

もちろん、誰に話しても
「夢を見てた、てオチ?」とか「記憶を修正してるんだね」なんて言われてしまう。
まあ、誰だってそう言うだろう。

今は、もうない実家。
確かに👻こんなコがこっそり住んでいたし、私はふわふわと浮遊していた。

どこにでも、よくある話……なのか?
いや、どうなんだろう。
今の私は、もちろん飛べない。



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