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⑩はじめて自分が、他とは違うことを自覚した。

私が物心ついたころにはもう、母は狂気の世界にいた。

他の人には見えないものが見え、聞こえないものが聞こえ、それらに怯え、必死で戦っていた。

時には身体のほうがダウンし、大きな喘息発作を起こして寝込む。シュンシュンと蒸気を沸かした部屋で、コンコン、コンコンと咳き込みながら一人、臥せっていた。

母はいつも、家にいたけれど、いなかった。

そのころ小学生になった私は決まって、学校に着くとお腹が痛くなり、毎朝のように保健室に駆け込んだ。でも「トイレに行きなさい」とだけ言われて保健室を追い出され、不満も言えず、痛みも消えず、ただ我慢して教室の隅で座っていた。

私は家で、カレーライスを食べたことがない。ハンバーグも、エビフライも、クリームシチューもない。そもそも母は体調にムラがあり、家事ができる日とできない日があった。そして食卓には、父の晩酌のあてしか用意されなかった。

私はまた、髪を切ったことがなかった。伸びるに任せて放置しているうちに、小学校の高学年になるころには、腰に届くほどの長さになっていた。

何も知らない人からは、意志を持って伸ばしているように見えただろうし、時には私のトレードマークのように言われ、自分でもあまり不満に思ってはいなかった。

ところが五年生の時、転任してきたばかりの担任教師が、クラスメイトの前で笑いながら言った。
ちえさんは、とても髪が長いのね。
まるで、雪女みたいね。
教室は大爆笑。
私は、嘲笑されてはじめて、自分が、他とは違うことを自覚した。

おませな子は、母親と同じ美容院でカットしていたし、ロングヘアの子は、毎朝きちんと結んで、かわいい髪飾りをつけていた。バサバサのまま、ただ長いだけの女の子は他にいなかった。

目覚めた時に、ホカホカと湯気の立つような朝食が用意されていたことがない。
家を出る時に、誰かに「行ってらっしゃい」と送られたことがない。
帰宅した時に、誰かに「お帰りなさい」と迎えられたことがない。
私のためのおやつや、食事が用意されていたことがない。

物心ついてからの、私にとって当たり前だったこれらのことが、他の人とは違うのだと知った時、私ははじめて「不幸」になった。

私が子どものころの学校は、何が何でも行くところで、休むという選択肢はなかった。気の進まない日も、どうしても行きたくない日もあったけれど、高熱も出さなかった私は、休むということを思い付かなかった。

後に子どもが不登校になった途喘、私は狼狽え、取り乱し、やっきになって復帰させることしか考えられなかった。せっかく入った高校に行けなくなってしまった時期は、毎朝地獄のようだった。

今日は、起きるられるのか、起きられないのか。
今日は、どこが痛いと言い出すのか。
そして今日は、登校してくれるのか。
弁当と朝食を準備して毎朝、祈るような気持ちで、息を潜めて様子を伺っていた。

遠い日の、自分の学校生活はどうだったのか? 
楽しいと思ったことなど、一度でもあったのか?
少し考えれば、わかりそうなことだったのに。

例え成績が最下位でも構わないから、半分保健室で寝ていても構わないから、と、何とか登校してくれるように祈った。

他の人とは違うことで、生きづらさを抱え続けてきた私は、子どもたちが、まるで悪夢を繰り返すかのように、どんどん本通りから逸れていくことが、ただただ怖かった。

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