見出し画像

雨は正しき者にも正しからざる者にも ※BL/R18※

It Rains for a Right Person and the Who isn`t Right

⒈師走の斜めの雨んなか

 遠雷、冬の雨の第一滴が頬を打った。私は舌打ちする。横浜駅西口からドブ川を越えた繁華街、電線と看板と人波。次第にしげくなる雨に、夕べの通りが傘に華やぐ。傘が、無い。手にしていたはずの傘は、どこへ置いてきたのだろう。せん根岸ねぎし線の車内か。もう、取り戻せまい。構わない。買い直せばいい。
 東急ハンズの正面エントランスへ、私は飛びこんだ。硝子のスイングドアのむこうで、雨が本降りになった。湿っぽい綿コートと、一万いち九八〇〇円きゅっぱのコナカ。寒さのせいで、薄っすら頭痛がした。
 混んだエレベーターを避け、階段を使う。三階のアクセサリー売場に立ち寄った。再来週に十八回目の結婚記念日が控えていた。しかし、主力商品は若向きのシルヴァーアクセサリーで、嫁の喜びそうなデザインではなかった。銀製の指輪、腕輪、首飾り、ピアス、キーチャーム、懐中時計、ライター……この手のものを身に着けなくなって久しい。学生時代は、こんな装身具に万単位の金をつぎこんだものだ。買うつもりはなくとも、銀や革のデザインと趣向は目に楽しかった。
 立ちつくす細い背中。なぜか目を惹かれた。ありふれた黒のパーカーにブルージーンズの男の子。デコルテ型スタンドの銀のペンダントを、彼は熱心に見ていた。財布と相談しているのだろうか。私は頬笑ましかった。
 おもむろに彼がペンダントをつかんだ。不審に感じた。買うのなら、まず店員に声をかけるのがスマートだろう。ぎとったそれを彼は眺める。私は固唾かたずを飲んだ。彼はあたりを窺うことはしない。ペンダントを手に握りこんで、フロアをうろつく。万引きか、否か。決め手のないまま、私は彼をける。
 彼は会計カウンターを素通りし、階段をくだった。私は追った。彼はドミノ倒しのスピード。後れそうになる。私の肩掛鞄がもたもた揺れた。
 彼は一階フロアを突っ切り、正面エントランスを突破した。その瞬間、窃盗罪が成立した。私は声を張った。
「待ちなさいっ」
 打たれたように細い背中が震えて、止まった。いくぶん弱まった雨のなか、私は彼の手首をつかんだ。その胸許の鉄の鑑札ドッグタグが、凜と鳴った。背は一人前に高い。だが、顔つきはあどけなさが残り、躰の線も細い。せいぜい十五、六、七か。黒髪に隠れがちな、一重の切れ長の目、白眼は北極の氷みたいな青さ。左目の下に、赤ん坊の指先で突いたほどの黒子ほくろ。大きめの鼻と厚い唇の武骨な印象を、鋭くげた頬のラインが引き締めていた。そして、その齢に不似あいな、妙な色気がある。
 彼は観念したのか、暴れたりしなかった。黒髪の雫、彼の息が白い。私はその手を引いて、店内へ連れ戻した。
「だしなさい」
 彼は素直だった。ポケットの獲物を、私の掌に乗せた。長い鎖、真っ青なトルコ石の眼の、銀のドラゴンの頭。
 彼を連れて、三階の売場へ取って返した。いらっしゃいませ、と店員。私はドラゴンを会計カウンターに乗せた。
「ください。プレゼント用で」
 彼が機敏にこっちを見た。私が私服警備員でないことを、ようやく悟ったらしい。警戒心むきだしの目。そのナイキのスニーカーがそわそわと動く。私は小声で鋭くいう。
「逃げたらあかんで。にいちゃんの人相は証言でける」
 足のそわそわは止まった。彼はふてくされた横顔を見せて、どこかを睨む。

 宇多田ヒカル《COLORS》のインストゥルメンタル。北幸きたさいわいのジョナサン、ボックス席に私と彼は向かいあう。二つの珈琲の淡い湯気。彼は卓の一点を凝視し、押し黙っている。その視線の焦点に、私はラッピングされた小箱を差しだした。中身は例のドラゴンだ。
「あげるわ。これが欲しかったんやな?」
「いらない」彼が初めて口を利いた。「何も欲しくない」
「ほんなら、どうして?」
 彼は目つきを鋭くする。「あんたのやったこと、証拠隠滅だろ。目当ては何?」
「ナンやったら、今から一緒にケーサツ行こか。二人とも防犯カメラにばっちしやで。おれは行ってもかめへんけどな。どうせ微罪処分やろ。けど、にいちゃんは何かと困るんちゃうの? ケーサツと家裁のお世話なったら、親は嘆くし、ガッコもクビかもしらん」
 彼は再び卓を凝視した。
「おれはにいちゃん心配してんねやで。ちゅうか、にいちゃん、高校生? こういうことしたん、初めてか? 名前は?」
「あんた、もしかしてホモ?」
 一瞬、動揺した。私は笑って、左手の甲を向けた。薬指のゴールドリングは、長年の着用で傷だらけだ。
「おっちゃんにはな、料理はヘタやけど優しいヨメはんがおって、ついでに勉強嫌いやけど可愛いコムスメもおんねん。子ぉを持つ大人の一人として、ついいらんお節介焼きたなったんや。にいちゃんはマトモな子ぉに見えるし、なんで? 思てんけど」
 私は言葉を切った。彼はなんの反応も見せなかった。私は珈琲を啜った。
「まあ、色々あんのやろ、きっと? そないに警戒せんといて。おっちゃん、悪い人ちゃうで。べつにお説教しよ思てるわけでもない。にいちゃんに偉そなこと、よういわん。おれも悪ガキやったしな。しょうもないこと、アホほどやらかしてん。鑑別所、入ったこともあんで」
 彼はいぶかしげに見つめた。私は頬笑んだ。
えへんか?」
 自覚していたが、私の見かけはおっとりしているらしかった。私は背広を脱ぎ、カッターシャツの袖を捲くった。左肘の上にビコーズみたいな根性焼きの痕。
「ほれ。中三んときや。非行事実は、傷害と窃盗な。話すとながなるけど、きく?」
 彼は頷かなかった。だが、首を振ることもしなかった。ただ、私を真っ直ぐに見た。私はネクタイを緩めて、二十数年前の記憶を手繰り寄せた。

 FM大阪は横浜銀蝿ながしよった。全国で校内暴力が問題化して、どの街にも百人単位で族が暴走はしっとった。そんな時代やった。
 おれの中学も、御多分に漏れず荒れに荒れとったで。枚方ひらかた市立第五中。壁っちゅう壁は落書きコーナーで、窓は粉々でベニヤの応急処置のまま。イメージでけたか?
 そのころ、おれのツレはアンマンやった。ちょお漢字、思い浮かべてみ。浦安うらやすみつるちゅうて、せやから綽名あだなアンマン・・・・やねん。わかる?
 あんまんは好かん、豚まんが好きゃねん、アンマンはいうてな。大差ないやんけ、おれはつっこんだわ。
 ちなみに、おれの綽名はアホカワ・・・・やった。ほんまは細川ほそかわいうねんで。細川とおる
 アンマンは父親と二人暮らしでな、母親はアンマンが小さいとき病気で亡くならはったきいてた。なんや、みんなアンマンを可哀そな子ぉ思てたな。
 アンマンとつるんだんはな、家に呼ばれたからや。ぼろアパートの六畳一間で、テレビと箪笥とちゃぶ台と、くさい万年床があるだけで。んで、そこにパンチパーマで汚い作業服ツナギのにいちゃんがいて。ペンキ屋じゃ、いうてはった。そのにいちゃんが、おれらにタバコ勧めてな、バイクの話しやはんねん。よう断れんしな、気張って吸うたったわ。あとで知ってんけど、そのにいちゃん、アンマンが育った養護施設の先輩やったらしい。友だち呼んでさしぃ、アンマンは命令されてたんやな。ごめんな、アンマン謝ったけど、おれは嫌やなかってん。バイクの話、おもろかったしな。
 それから、アンマンちにようけ行った。そのころ、おれの綽名はニコチン大王・・・・・・やった。どないしたら渋く吹かせるか、そればっかし考えてたな。そのうち、そのにいちゃんに、ボンタンとドカンもろて。
 おれら、いそいそ穿いてガッコ行ったわ。アンマンがボンタンで、おれがドカンな。一年坊のくせに意気っとんちゃうぞ、三年生らにどやされた。けど、源之助げんのすけ先輩にもろたんです、アンマンがいうたら、三年生らは先輩と面識あったみたいで、それから目ぇかけてくれはったで。
 どっちかっちゅうたら、おれ、優等生やってんで。成績もトップクラスとはいわへんけど、中の上くらいはキープしてたしな。近所にええとこのぼん・・の家あってな、そこのゴミに参考書がいっぱいあってん。それ拾って予習しとったから、平均点は余裕やった。けど、俺が大変身しても、クラスのやつらは気にせえへん。時代が時代やからな。ぐれてるほうが普通やったんや。狂ってたな。
 アンマンは勉強はまあ皆目かいもくでな、せやけど体育の模範演技で右に出るやつはおらんかった。鉄棒の大車輪やったときは、クラス一同どよめいたで。
 ただな、単元がサッカーなったら、アンマン怖がって見学するやつが出てもた。アンマンのでっつい図体でマイペースな態度されると、威圧感あるらしいねんな。けど、あいつ、ほんまは繊細やねん。だんだん授業ぶっちするようなって。おれもつきあった。馬の合うやつらと隅っこでたむろしてた。早よ教室入らんかい、っちゅう教師としょっちゅう小競りあいや。
 源之助先輩は、ぷっつり来えへんようなった。ペンキ屋、クビんならはったちゅう話や。俺とアンマンとその他大勢で、六畳間でタバコ吸うて、缶チューハイ呑んだ。朝帰りも増えてた。
 おれのことで、オヤジとオカンが毎度ケンカしよった。テツがぐれたんは、おまえのせいや、いや、あんたが悪い……責任のなすりあいや。勝手にせえ、おれは思てた。
 そんときは、もう最高学年やった。おれとアンマンとみんなで、廊下で駄弁ってた。井上いのうえっちゅうむかつく先コおってな、そいつが来て、なんか見せよんねん。マウンテンデューの緑のびんな、それに半分くらい液体が入っとった。おまえらやろ、アホがシンナー吸うたら、よけいアホなるぞ、井上がいうた。完ペキ濡れ衣や。職員室がそばやからて、やたら調子こいとんのも腹立った。アホにアホいわれたない、そんなん知らんわ、アンマンはいうた。井上のやつ、アンマンを職員室に無理やり引っぱろとした。おれ、とっさにその壜つかんで、投げた。それが壁でパァーンて派手に砕けて、つーんて有機溶剤のニオイして。それが合図みたいやった。井上の腹、アンマンが何発か殴った。井上が屈んだところに、顔面におれが膝蹴りいれた。アンマンがケツに回し蹴りして、井上はこけた。あとは、みんなで寄ってたかってサッカーボールキック。日ごろの恨みっちゅうやっちゃ。井上は鼻血だらだら流して、頭かかえとった。何分か後に職員室からやっと応援きて、みんな散った。おれとアンマンはてんでに逃げて、川の堤防で落ちあった。
 校内暴力なんて珍しなかった。教師の体罰なんか当たりまえの時代やしな。逆もまたしかりや。けど、そんときは、大勢の生徒の教師への一方的な暴力っちゅうことで、大問題なってもた。井上は鼻の骨折って、アバラもいわしたらしかった。ガッコは井上に被害届ださせた。
 おれとアンマンと、ほかに四人がケーサツに取調べされた。こんどなんかしよったら、すぐ家裁に連れてくさかい、ケーサツは脅すしな。みんな、ビビりよってな。それから、そいつら、おれを避けんのや。そうなると、ガッコにも居場所ないねん。残ったのんは、アンマンだけ。
 そのあと、アンマンがあんまん食うとったんや。いっぺんに十個くらい。様子がおかしくてな。オヤジに土下座された、っちゅうんや。アンマンの父親、長距離トラックの運ちゃんでな、夜勤が多くて、おれは会うたことなかったな。せやから、おれら、好き放題しててん。
 心無いやつっちゅうんは、どこにでもおるもんでな、アンマンにいらんこと吹きこんだらしい。おまえのオカンは病気で死んだんちゃう、オヤジが殺したんや、てな。けど、それがほんまなら、いろいろ辻褄合うねん。アンマンがシセツ預けられとったあいだ、父親はムショにいてはって。せやから、会われへんで、ずっと手紙だけで。刑期が済んだから、アンマンを引きとった。なあ? それでアンマンは父親を問い詰めたんやて。
 三つのアンマンが寝てる間ぁに、夫婦喧嘩になってな。母親が包丁持ちだして、ほんで父親は取りあげようとして、母親のおなか刺してしもたらしいわ。母親も、お腹の子ぉも、あかんかった。
 おれ、頭まっ白で、それ以上はようきけんかった。母親と弟か妹ころした父親と、アンマンはずっと暮らしていかなあかんのや。それってどないな気持ちやろ。もう、よういわれんで、おれら一緒に泣いてた。
 暑い時季なると、アンマンちの六畳間、ものごっつくっさいねん。なんや、布団から畳からえたニオイしてな。まあ、男所帯やしな。おまえが毎晩センズリこくからや、おれはいうて。毎晩はこいてへんわ、アンマンがいうて。しゃーない、おれら外でた。
 そのへんで夜遊びして知りあうちゅうたら、暴走族しかない。駅前でタバコ吸うてボケーッとしてたら、むこうから声かけてきはる。その人は、鑑別所に二回入ったちゅうてた。おれらが井上いわしたことも知ってはった。鑑別所カンベは間違いないで、けど一回目は保護観察ホゴカンで出れるからな、て。
 その人に教わってな、おれら、バイクの運転おぼえてん。持ってなくてもええねん。盗む度胸さえあったらな。盗みかたもなろた。キーボックスの配線引き抜いて、エンジン直結させんねん。おれ、巧かったで。メーカーによって配線の色ちゃうんやけど、どこのんでも見当つけて、すぐ盗めるようなった。
 盗んだのんは、族の人に取られんよう隠しといた。廃寺の境内にな。その寺の裏の坂くだると、すぐ川の堤防や。川原でアンマンとラッタッタ乗りまわして、ワッハーほたえてるときだけスカッとすんねん。天野川あまのがわんとこ行ったらタダでバイク乗れるで、噂なってな。他のガッコのやつらも寄して、人数が十人以上に膨れることもあった。ガソリン切れたら、バイクは川にほかしてな、また新しいのんを盗ってくる。夏休みじゅう、そないなことしとった。
 盗んだ数は二十台以上。それはケーサツにいわれて知った。井上への傷害と合わせ技で、おれもアンマンも身柄拘束されて、めでたくカンベ入りや。
 もう何がビックリしたて、最初に身体検査あんのやけどな、それが玉の裏からケツの穴まで見られる。こっちはさらっぴんの童貞やのにな。いや、恥ずかし死にしそやった。あれだけで、もう悪いことせんとこ、ちょお思たもん。
 カンベの教官は優しかったで。ほら、少年院ネンショーと違て、あくまで鑑別のための場所やから。
 週になんべんか運動の時間あって、そんときはアンマンと遊べた。あんまししゃべらんと、ボールばっかし蹴ってたけどな。
 たまにオカンが面会に来ては、めそめそぐじぐじ泣きよって、そんときは気ぃ滅入ったわ。オヤジはえへんかった。あれや、たぶん、バイクの弁済が目ぇ剝きそうなぇやったから、腹立てとったんやろ。そこに一ト月くらい暮らしたやろか。
 審判で、おれはやっぱしホゴカンやった。けど、アンマンは高槻たかつきの教護院に送られた。父親だけでは面倒見きれへんでしょ、判断されたんや思う。もっとようさんしゃべっといたらよかった、後悔したわ。
 アンマンとなんべんか手紙やりとりしたけど、そのうち途切れてもた。
 おれ、じつはあんまん、めっちゃ好きゃねん、て。それが最後の言葉やった。

 そんなことを、私はしゃべった。彼は相槌をいっさい打たなかった。ただ、私から片時も目を離さなかった。睨むのでもなく、冷静に見つめる。その双眸は夜の鏡の明瞭さで、私を小さく映している。彼に見られるのは、不思議な感覚だった。この躰が、水のように透きとおる気がした。もっと、見ていてほしい。
 その一心で、私は話しつづけた。地元の高校をどうにか卒業し、横浜の大学に受かったこと。ジャズ部でドラムを叩き、そこで親しくなったヴォーカルの先輩が、今の嫁だということ。現在はOA機器や文具を卸す会社の営業部係長だということ。夫の欲目かもしれないが嫁はべっぴんで、よく出来た女だということ。私が二十七のとき生まれた娘はもう小四、私に似て不出来だが可愛くてたまらないこと。十五分、三十分、四十五分、さらに粘って一時間……。さすがに話のネタも尽きた。喉がれて、すっかり冷めた珈琲をすすった。
「話は終わり?」彼の声は冷たくはなかったが、暖かくもなかった。彼はドラゴンの箱を見やった。「それの代金は払う。いくら?」
「お金、持ってたん?」
 氷の目が背けられた。気まずいと感じるほどの良心の呵責はあるようだ。私は苦笑し、箱を引っこめた。
「ええよ、これはおれがもろとく」
「用は済んだ?」彼は横顔のままにいう。「なら、もう行くから」
 彼はなめらかな動きで背中を見せた。その胸許で、二枚の鑑札が凜と鳴った。
「待って」
 私は思わず手を伸ばした。ふれるのは、ためらった。彼の躰はなかば、むこうを向いている。彼と、このまま別れたくなかった。私はもう一度だけ訊いた。
「にいちゃんの名前は?」
 彼は唇を結んで、床の枇杷茶色を睨んでいた。きっと、メールアドレスを尋ねても、教えてはくれまい。私は背広の隠しから名刺いれを抜いた。一枚を彼の胸へ差しだす。彼は無表情に見おろした。
「おっちゃんの連絡先、書いてあるから。ケータイのほうなら、何時なんじでも繋がる。相談相手くらいやったら、なれる思う」
 彼は二本指で受けとった。ろくに見もせず、ジーンズの尻に押しこむ。瘦せた背中は、通路を最短の動線で行き、ドアを押して出ていった。ちらりとも振りかえらなかった。
 私は二人掛の席の真んなかで、溜息を深々とついた。放心。彼の珈琲が手つかずで残っている。飲んでしまおうと引き寄せた。
 カップが、転んだ。液体が夕闇の速度で拡がる。卓をはみだしたそれが、彼のいた席に滴った。私は見つめるほか、なすすべがなかった。
 きっと、彼から連絡はないだろう。なんとはなしに、そう思った。

⒉薔薇も海も見えない

「テツさんは勝手なんだよ」
 長い沈黙ののち、沢田さわだひじりは低い声をだした。歓楽街の夜を行くタクシーの後部座席、私と聖のあいだに人ひとりぶんの距離。そのいいかたで、聖の感情が極月の外気よりも冷えこんでいることがわかった。ざっと氷点下二七三度。水銀だって凍りつく。
「何を不機嫌かましとんねん。そうか、腹へってんねやろ? なに食いたい。なんでも食わしちゃるで。中華、フレンチ、イタリアン、エスニック、和食、寿司、焼肉、お好み焼き……」
「ずっと連絡よこさなかったと思ったら、こうやって夜中に呼びつけて相手させようとする。ぼくはホストじゃない。ぼくをほったらかして、誰と遊んでたんだよ?」
 若い愛人はきこえをはばかりりもしない。私は気になった。この運転手は、男同士の痴話喧嘩をどう思っているだろう。バックミラーに、私より一回り年配の男の無表情。関東の不愛想なタクシー運ちゃんだ。長年走っていると、こんな事態はべつだん珍しくもないのだろうか。
「そんなんちゃうわ。連絡せんかったちゅうても三日だけやんか。取引先が無茶いうてきて、いろいろ調整しなあかんから、しばらく連絡でけへんて、おれはちゃーんと書いたぞ。読んだんか?」
「それだってメールの一つ打てるだろ。このごろ、メールしても返信は遅いし、会う回数はめっきり減ったし。なあ、ぼくが嫌になったんだろ。新しい子は、ぼくより具合いいの?」
 ああ、じゃーくさい。十五コ下の男子大学生は異常に疑り深かった。メールの返事が少し遅れると何処にいる、誰と会っていたんだと大騒ぎし、メールしたらしたで文面が冷たい、気持ちが醒めたんだろうとまた大騒ぎした。女々しいというよりか病的だった。もう距離を置きたくなっているのは確かだ。それでも若い躰は魅力だった。二年前に野毛のげのゲイバーで知りあって以来、きょうまでずるずる続いてきた。
 私は聖に向き直った。艶やかな黒髪が、私好みの醤油顔をふちどる。白いジャケットと臙脂のニットの下の、華奢な少年めいた躰。私は精一杯の誠実さを掻き集めてきていう。
「ヒジリ。おれには、おまえしかおらへん。久しぶりに会うたんや。こんなアホなことで喧嘩したない。機嫌なおして、二人でうまいお好み焼きでも食お。な」
 きょうはまだ遣らせてもらってない。それに尽きた。そっちのほうが伝わってしまったのだろうか。聖はヒステリックにいう。
「お好み焼きは服が臭くなるから嫌いなんだっ。ぼくしかいないって? 結婚してる人間が、よくいうよな。奥さんのことだって、そうやって丸めこんだんだ。こんないい加減なやつと付きあったのが間違いだった。どうせ、ぼくのほかにも騙してる子がいるんだろ」
 私は胸を押さえた。ジャケットの隠しには、ドラゴンのペンダントがあった。聖にやろうと思っていたけれど、その気も失くした。あの雨の日の彼の澄まし顔が浮かんでくる。クールで綺麗な子だった。そういうことにしてしまおうか。ふと、そんなふうに考えた。
「そうや。こんどの子ぉは十代や。お肌ピッチピチやで。最っ高にええ具合ぐわいや。普段はしおらしいけど、ベッドではえらい積極的やねん。誰かさんと違てな」
 聖が腕を振るった。私の左頬が乾いた音で鳴った。急ブレーキ。私は右頬をアクリル板とヘッドレストで打った。
「あんたはガキに性病うつされて死んだらいいっ。お好み焼きもあんたの顔も二度と見たくない!」
 聖は自力で開けたドアを乱暴に閉めた。終わった。痛みは遅れてやってくる。お客さん、どうします? と運ちゃんが事務的に尋ねた。桜木町さくらぎちょう駅へ、と私はいった。

 桜木町のアメミヤ文具株式会社は、明治三十年創業。昭和後期の砂色の五階建て社屋に、百六十人程度の従業員がいる。その四階の五十坪ほどのオフィスが、私の職場だ。
 私は営業部の中堅社員だった。わが社にマーケティング部はない。商品の売込みもマーケティング戦略も営業部が一身に担っている。月別売上データの分析に頭を悩ませていると、むこうで誰かが手招きした。毛塚けづか部長だ。
「細川、ちょっと」
「はい」
 パソコンをスタンバイにし、私は席を立った。パテーション内の糞色ばばいろのソファーで、部長はいつになく深刻な顔でハイライトを吹かす。私は不安に駆られた。
「あの、なんぞ問題でも起きたんですか?」
「それが……さっき、ファクシミリが届いたんだがな」
 私は身構えた。商品に対するユーザーのクレームか、それとも製造元のリコールか。はたまた、取引先の誰かの訃報か……。
 部長は無言でFAX用紙を伸ばし、私に寄こした。紙はまだ温かかった。コミック誌から切り貼りしたような大小の文字[細][川][は][ゲイ][未成年][に][淫][行][を][働][いて][いる]。私は目玉を落っことしそうになった。部長はいいづらそうにいう。
「本社で細川っていうと、おまえしかいないからな。まさかとは思うが」
 喉がつかえたみたいに、しばらく返事できなかった。テーブルに置くと、怪文書は自然と筒状に丸まった。震えそうな指先を握りこむ。私はいつものように笑い飛ばすことにした。
「んな、アホな。わたしには嫁も子ぉもいるんですよ。ありえへんでしょ」
「わかってるさ。しかし、こういうもんが届いた。なあ、細川、誰かに恨みを買った覚えはないか?」
 聖だ。いつかの朝方、聖と乗ったタクシーで、私だけ会社の前で降りたことがある。不用心だった。
「ありませんよ。あるわけがない」
「そうだよな。おまえほど気の好いやつはいないもんな。ったく、どこのどいつが」
 部長は舌打ちし、煙草を執拗ににじった。
 席に戻る途中、部下が寄ってきた。おつぼね内藤ないとう女史だ。口に手を当ててひそひそいう。
「細川係長、あの、さっき電話があったんですが」
「おれに?」
「というか……、変な電話だったんです。細川はとんでもない男だ、十代の少年と不倫している、すぐクビにしろ……って、ヘリウムを吸ったみたいな声で。それで、すぐ切れちゃいました。それが、きょう二度目なんです」
 昼休み、聖に長いメールを打った。送信、直後エラーで戻ってきた。無断でアドレスを変更したらしい。電話をかけると、プープープーと話し中の音がした。なんべんかけても同じだった。

「おかえりなさい、てっちゃん」
 キッチンカウンターから嫁の美幸みゆきの顔。雨あがりの笹百合めいた透明感。三十九歳になっても、出会ったころと変わらなかった。
「みぃちゃん、ただいまぁー」
 私も努めて明るくいった。美幸の顔を曇らせるのは、この世で一番の罪悪である気がしてしまう。このリフォームした対面式キッチンだって、嫁のたっての願いを無下にできなかったからなのだ。横浜市南区に建てたマイホームのローンは、あと二十三年。
「おかえり、てっちゃん!」
 小柄な娘が腰にしがみつく。その勢いがよすぎて、私はこけそうになった。娘の頬を軽くつまんだ。
「ミドリぃ。いきなしドォーンすないうてるやろ。ほんで、てっちゃんやなくて、お父ちゃんと呼びなさい。悪い子ぉやな」
 私はそのやらこい髪を撫でた。毛足が短くて、可愛い男の子みたいだ。美翠みどりは褒められでもしたようににこにこする。
「てっちゃん。あんな、うち、ガッコでアンモナイトQ描いてん」
 近ごろ美翠は私を真似て大阪弁を使った。
「アンモナイトQ?」
「恐竜アルファベットのQのやつ。こないだ教えたやんか」
「あ、せやったな。齢とると物憶えわるなんねん。ミドリは若いうちにうぅーんと勉強せなあかんで」
「そんでな、そんでな、それがめっちゃうまく描けたんよ。見て、見て」
 美翠はジャポニカの自由帳を開いた。左右のページを縦に見ひらきで使ってあった。クーピーペンシルで丁寧に塗られた、妙に目玉が大きくて可愛らしいアンモナイト。トレーディングカードか何かの絵柄を再現したらしきそれは、少々のデッサンの狂いはあるものの、なかなかの出来映えだ。
「おぉー、やるやんか。おまえ、絵心あるなぁ」
「せやろ? 友だちにもホメられてん。ドリー、すごーい、て」
「そか、そか」
 娘は美幸に似た瞳を輝かす。「うち、しょーらい、マンガ家なる。なあ、なってもええ?」
「おう、なれ、なれ。お父ちゃん、応援しちゃる」
 一人の子供にかかる大学卒業までの教育費は最低一千万円。私は職を失うわけにはいかなかった。

 私にはツテがなかった。まずは《探偵社・興信所の選び方》をダイヤモンド地下街の有隣堂ゆうりんどうで一五七五円で買った。まえがき・・・・からあとがき・・・・まで熟読してから、私はタウンページを捲り、ケータイのボタンを連打した。夜の雨に降りこめられた運転席。トールワゴンのフロントガラスに百の銀の筋。
『はい、AAAトリプル・エー探偵社です』
「わたくし、横浜の細川と申しまして。知人に悪質な嫌がらせを受けているんです。証拠を押さえたうえで、本人に考えを改めるよう説得をしたいのですが」
『それでは一度、詳しくお話を伺いたいので、お会いしましょう。いつがよろしいですか』
「仕事を持っておりますので、土日がいいです。そちらの事務所に伺うには、何時ごろが適当ですか」
『いや、外でお会いしませんか』
「せや、大事なこと忘れとった。調査期間と、およその見積もりを教えてください」
『そういった調査ですと、とりあえず二週間、諸経費込みで一日十五万円で、二一〇万円ほどですね』
「そういった調査て、具体的にはどんな調査なん? その金額で、どういうことがわかるん?」
 男は早口になった。『いや、まず調査対象について詳しくきかないことには。とにかく、一度お会いしましょうよ。横浜で会うんでしたら、髙島屋たかしまやの喫茶店はどうですか』
「なあ、にいちゃん。ほんまは事務所なんかないんちゃうの。事務所の住所、番地までいうてみ?」
『……』
 受話口のむこうで沈黙が続いた。私は通話を切って、次の探偵社にかけた。

 次の土曜日、電話で感触のよかった、川崎かわさきの探偵社を訪ねた。こぢんまりした事務所だった。そこで依頼内容と、沢田聖について話した。
「ほう、相手は国大の学生さん。失礼ですが、この方とは、どういったご関係で?」
 私よりもとおは若そうな探偵だった。月並みな表現を用いるなら、清水きよみずさんの舞台から飛び降りる気で私はいった。
「愛人です」
「ああ、そういう……」
 探偵は口を歪めた。その侮蔑の色を、私は見逃せなかった。
「そういったご趣味の方は最近、多いですからね。こちらも慣れています。大丈夫ですよ。そういった痴情のもつれが七十万で片がつくなら、お安いかと……」
 男のへらへらした笑いに、頭に血が上った。
「なんで半笑いなん? バカにしてんのか」
「や、決してそのような……」
 男は焦った声をだした。私は立ちあがった。
「やめさしてもらうわ。あんたに金は払いたない。あんたに七十万は端金はしたがねでも、わしには大金じゃ。アホンダラ」
 私の豹変に、男は凍っていた。私は鞄とコートを手に事務所を後にした。

 社長室の応接ソファーで、私は沈黙した。ローテーブルに、コミック誌の文字を切り貼りした怪文書[細][川][は][ゲイ]。裸の少年と絡む、私に似た男の写真。もちろん、私ではない。三代目の雨宮あめみや社長取締役の表情は苦かった。
「先日、ぼく宛てに届いたんだ。細川くんが、その……、十代の男の子に手をだしていると」
 聖に腹が立った。私はきっぱりと告げた。
「その写真はわたくしではありません。そのような事実は根ぇも葉ぁもないことです。わたくしは妻と子ぉを愛しています」
「ぼくは細川くんを信じたいがね、あまりにこういうことが続くのは、社としても困るんだ。たとえ事実無根だとしても、よくない噂が立てば、取引先の心証にも関わるからね」
 この社長は、社員を守る気はないようだった。私はひらきなおって訊いた。
「社長。いい探偵をご存じないですか?」

 天皇誕生日の早朝、ケータイが鳴った。私はベッドで身じろぎした。光る液晶画面。着信元は、非通知。私は警戒した。着信音は途切れた。
 娘が生まれてから、嫁と寝室は別々だった。冬の払暁の空気。私はももけたカーディガンを寝間着に羽織って、電気ストーブをつけた。クローゼットから洋服を探す。
 ケータイが鳴った。またしても、非通知。私は通話ボタンを押して、無言でケータイを耳に当てた。何者かの息遣い。
「どちらさん?」
『あんた、クルマ持ってる?』受話口からの彼の第一声が、それだった。『保土ほど公園の、B駐車場ゲート前にいるから』

 私はシャワーを浴び、おニューの服を着て、シェーヴァーを当て、ワックスで髪を整えた。キッチンにいた嫁にどう云い訳したのか、あやふやだった。
 朝っぱらからネズミ捕りもあるまいと、私は法定速度を遵守しなかった。たぶん、かなり荒い運転だっただろう。家から公園まで、たった六キロ。そのたった二〇分のドライヴが、じれったいほど長かった。
 曇天。その県立公園は球場やラグビー場、テニスコートを擁する広大なものだった。園内のB駐車場付近に停車し、私は外へ出た。彼の姿を探す。ケータイが鳴った。非通知。
『あ、やっぱあんたか』
 受話口で彼がいった。冬枯れの公孫樹いちょうの下、黒のフリースジャケットが手を振った。私は手を振りかえした。
 ケータイ片手に近づいた彼は、先々週よりも目に見えて瘦せていた。私は思わずいった。
「大丈夫なん、ちゃんと食うてんのか」
 彼は苦笑した。「忙しくてさ。ねえ、朝メシにしない? そんなに高くないところで、あんたのオススメの店ってある」
 彼を助手席に乗せた。彼はシートベルトをしながら、車内を見まわした。
「わお、マジで妻子持ちなんだ」
 日産キューブはファミリーカーだ。リアシートに、娘の大好きなプテラノドンTやシーラカンスIのクッション。バックミラーに揺れる、アンモナイトQのストラップ。私は慎重にハンドルを切った。
「気になるか?」
「べつに、よその家庭に興味ない」
 窺い見た横顔は、クールに無表情。私は一番訊きたかったことを訊いた。
「なんで連絡くれはったん」
「腹へったから」
 にべもなかった。トールワゴンは園内の道を北東へ進んだ。
 交差点を右折し、国道十六号線に乗ると、彼はそわそわと車窓を気にした。
「どしたん?」
「助手席って、久しぶり」
 彼の声ははしゃいできこえた。彼はガキくさい笑顔になって前方を指差した。
「ねえ、オービスで記念撮影しない?」
「あかん」
 私は噴きだした。

 馬車道ばしゃみちのロイヤルホストは二十四時間営業だった。結露の硝子ごしに、明治屋のビルと、疎らな通行人。窓際の席で、私は水を飲んだ。
「悪いな。朝やと、こんなとこしか開いてへん」
 メニュー表を手に彼は首を振った。「おれ、ロイホ好き」
「昼までつきあえるんやったら、もっとうまいとこ連れてっちゃるで。にいちゃん、お好み焼き好き?」
「好きだけど、昼までは無理だな」
「予定あるん?」
「うん、まあ」
 彼は言葉を濁し、メニュー表にうつむいた。詮索するなということだろうか。私は水ばかり飲んだ。彼はブレックファストメニューと睨めっこを続けた。
「遠慮せんと、好きなもん好きなだけ頼んだらええわ。まあ、ご予算内でな」
 彼は疑わしげな目。「予算は?」
 私は指を一本立てた。彼は真顔でいった。
「千円?」
「ちゃう。桁いっこ少ないわ。学生さんの財布と一緒にすな。社会人なめんといて」
 彼はにやりとした。「よかった、食い逃げしなきゃいけないかと思った」
 彼はモーニングビーフジャワカレーとオニオングラタンスープ付ブランチプレートと食後にホットファッジサンデーを、私は朝の和風ハンバーグ膳をとった。私のおろし乗せハンバーグを、彼はじっと見つめた。
「欲しいんか?」
「いや、メニューがおじさんだなって」
「そら、三十七やもん。おじさんやで。にいちゃん、齢なんぼやったっけ?」
「十七」
「若っ」
「あ、やっぱ十八」
やっぱ・・・てなんやのん」
「十八のほうが、色々と便利じゃない?」
「おれがいえた義理ちゃうけど、お母さん泣かしたらあかんで」
「あの女は、泣くような母親じゃないから」
 淡々とした口調。憎悪を通り越して、諦観に至った。そんな感じだ。
「にいちゃんち、複雑なんか?」
「まあ、複雑かな」
「おっちゃんでよかったら、話きこか」
「嫌だよ、せっかくのメシがまずくなるじゃん」
 彼はカレーに匙を入れて、黙々と口に運んだ。なんでもいい、彼のことが知りたい。私は悶々としつつ、ハンバーグを箸で細かく切り分けた。
「にいちゃんの趣味は?」
「趣味? え、これ、お見合い?」
 彼は笑ったけど、私は大真面目だった。彼は小首を傾げて、私の顔を覗きこんだ。
「細川さんの趣味は?」
「ないな。しいていうなら、仕事やな。おもんないやろ」
「おれの趣味もつまんないよ。バッハを聴くこと」
「音楽の父の?」
「そう。最近は《マタイ受難曲》ばっかり。あれをピアノに編曲できないかと思って」
 《マタイ受難曲》など私は知らなかった。じつはええとこの子なのだろうか。
「ほう、ピアノ弾くんや。にいちゃんの手ぇ綺麗やもんなぁ」
 彼は微苦笑した。「下手だけどね。あとは雀が趣味」
「スズメ?」
「おれ、目覚まし時計が嫌いで。それで夜のうちに屋根の上に米をまいておくんだ。そうすると朝、雀が集まってきて、その声で起きるんだ」
 つい、口許が緩んだ。なんや、その可愛い趣味は。
「けさもそれで起きたん?」
「ゆうべは寝てない。眠れなかった」
 彼はパンをカレーにつけて嚙みちぎった。いい食べっぷりだ。余っ程、腹が減っていたのだろう。
「お代わりしてもええで」
「いや、予算オーヴァーしちゃうから」
「ほんなら、ご予算はこうや」
 私は指を二本立てた。彼はにやりとした。
「二十万円?」
「ちゃう。桁いっこ多いわ。セレブの財布と一緒にせんといて。係長はつらいねんで」
 彼は笑い声を立てた。初めてまともに笑ってくれた。

 冬の山下公園に、風と海と鷗の声。曇天の藍錆色あいさびいろの湾の遠景にくすむ、みなとみらいの超高層ビル群。白い柵の護岸の藤壺をさざなみが洗った。お徳用の無塩ポップコーンを彼は鷲づかみにし、力士の豆撒きみたく豪快に投げた。鷗らは声をあげて乱れ飛び、赤い嘴で見事にキャッチした。彼は小さな子のように笑った。
「にいちゃん、鳥、好きなんや」
「鳥……好きかな?」彼は首を傾げた。「うん、好きかも」
 私もポップコーンを握って、一九七一年の江夏豊みたく振りかぶって投げた。白い鷗が乱れた。彼も投げた。私と彼は競ってスナック菓子をばらまいた。お徳用の袋は見るにぺしゃんこになった。餌がないと見るや、鷗らは水上を滑空して離れていった。私は袋を畳んで、綿コートのポケットに仕舞った。
 ぼおおおおおおお……と長い汽笛がきこえた。港に係留保存された氷川丸だ。
「もう十二時?」
 彼はケータイを見て、顔色を変えた。
「なんか予定あんのやろ。送ってくで」
「うん……」
 彼の顔は曇った。楽しい予定ではないのだろう。
「それとも、おっちゃんとお好み焼き屋いくか?」
 彼は悲しい目で、首を振った。「行かなくちゃ。保土ヶ谷公園まで送って」
「なんや公園ばっかし行っとるな」
 私は笑って、駐車場へと歩きだした。途中、ぽつりぽつりと冷たい雨が頭皮に当たった。
 黒のトールワゴンの運転席と助手席、私と彼は見つめあった。ここから保土ヶ谷公園までは十五分ほど。私らの時間はそれまでだ。次があるのかは、わからなかった。
「細川さんは、なんで優しいの?」
「なんでやろ」
 彼のやつれた顔。ルーフの雨音。私はぽつりという。
「アンマンに、似とるからやろか」
「あんたの友達?」
「顔とかやないねん。顔なんか、もうおぼろげやしな。せやけど……なんやろ、雰囲気やろか。どっか寂しそな感じとか」
「あんたはさ……」
 着メロが鳴り響いた、宇多田ヒカル。彼のケータイだ。彼は数秒ためらって、ケータイをひらいた。
『リュウ、いつまで待たせんだよ。時間ねえぞ』
 ガラの悪い男の声が丸ぎこえだった。
「すみません。大丈夫っす。今から行きます」
 それだけ告げて、彼は通話を切った。私は黙ってイグニッションキーを回し、サイドブレーキを解除し、軽くアクセルを踏んだ。フロントガラスを打つ雨が激しくなる。ワイパーを動かした。交差点を左折して、国道一三三号線へと向かう。
「クルマを貸してほしいんだ」
 意を決したように、彼がいった。私はウインカーをだして、路肩に停車した。ワイパーが五秒おきにフロントガラスを拭いた。
「どういうことなん?」
 彼の北極の氷のような目が、潤んだ。
「きょうだけでいいんだ。必ずちゃんと返すから。お願い」
「だから、なんに使うんや?」
「男には、やらなきゃいけないときがあるんだ」
「断る。何ぞあったら、おれも責任を問われるからな」
「細川さんしか、頼れる大人がいないんだ。頼むよ。貸してくれたら、あんたのいうこときくから」
 彼の目の濡れた光。心が揺れないわけではなかった。彼が本当に十八歳だったなら、ためらわなかったかもしれない。けれど、美幸と美翠の顔が浮かんだ。
「悪いけど、よう貸されへん。もう、ここで降りてくれるか」
 氷の目に失望の色。彼は奥歯を食いしばった。
「貸してくれないなら、あんたに変なことされたって警察にいう」
 ぞっとした。今の状況で、もし冤罪でも逮捕されて、それが会社や娘にばれたら……。私は動揺を呑みこんで、落ちついた声をだした。
「その場合は、おまえの万引きの件から話さなあかんな。なあ、にいちゃん。おれらうたの二回目やで。でけることと、でけへんことがある。わかるやろ?」
「失礼だって、わかってるよ。でも、手段を選んでる時間がないんだ。おれが警察にあることないこと吹きこめば、あんたは事情をきかれるよ。家族にばれてもいいの?」
 泣きそうな目が、挑戦的に睨んだ。彼ははらを括っているのだろう。私も、かつては不良少年だった。私は目を逸らさずいった。
「どうしても要るんか、クルマ?」
「要るんだ、どうしても」
「おまえのしようとしてることて、おれが参加したらあかんの? その、運転手として」
 彼は首を振った。「カタギは参加させられない」
「やばいことなんやな?」
「でも、やらなきゃいけないことなんだ。弔い合戦っていうか」
「誰か死んだんか」
「そう、死んだ。おれの友達が。あんたにとってのアンマンみたいな友達。そいつの魂のために、やらなきゃいけないんだ。おれの魂のためにも」
 透きとおった涙が、彼の頬に筋をつけた。その場しのぎの嘘とは思えなかった。私は黙って車を発進させた。彼はずっと啜りあげていた。

 寒い雨のB駐車場は、がら空きだった。私はシートベルトを外した。
「あさって、盗難届だす。なんしか家つっこんだり人いたりするのんはナシやで。あと、売り飛ばすのんも堪忍してや。ローン残ってんねん」
「大丈夫、ぶつけないようにするから。先輩は免許持ってるし」
 ありがとう、と彼の小さな声。薄暗がりでも際立つ、彼の白眼の青さ。雨とワイパーの音だけがした。
「いうこときく、いうたよな」
 彼は目を伏せた。震える睫毛。私は人差指を立てた。
「一回こっきりでええねん。チューさして」
「でも」
「嫌か?」
「カレー味かも」
「おれかてハンバーグ味や」
 彼もシートベルトを外した。その胸許で、鑑札が凜と鳴った。サイドブレーキの上で、彼の薄肉色の頬を両手でつつんだ。弾力ある、若い皮膚。その青みがかった目を覗きこんでから、そっと唇を合わせた。彼の左耳にピアスの穴。私は目を閉じた。彼のやわな唇の震え。アルミホイルみたいに胸がくしゃっとした。
 口を離して、彼の顔を確かめた。彼は耳を赤くし、うつむいた。
 私はグローヴボックスを開けた。いつかの小箱のリボンをほどく。彼が盗もうとした、銀のドラゴン。それを彼の首に着けてやった。
「よう似てるで」
 彼はそっとドラゴンと鑑札を押さえた。青い氷の目。私は、もう一度だけ訊いた。
「にいちゃんの、名前は?」
 彼の唇は、微かにひらいて、そのまま閉じた。それきりだった。私は溜息をついて、静かにドアを開けて閉めた。
 私は黒い傘を差して、寒い長い家路についた。頭を冷やしたかった。

⒊君の唇は話すためにある

 年が明けても、聖の嫌がらせはやまなかった。土曜日、私は社長に紹介された、町田まちだの探偵社を訪ねた。うちの営業部のオフィスほどもある、広々した事務所に男女が七、八人。
 依頼人用の応接間なのだろう、奥の小部屋に私は通された。がく入りの日探十訓。その地味な曇天色の背広の探偵は菅原すがわらといった。同性の聖が愛人だと告げても、菅原は顔色を変えなかった。いくら眺めても、不思議と印象に残らない顔立ちの男だった。
「では一週間の行動調査で証拠を押さえます。おもに尾行と張込みです。大学も学部もわかっていますからね。沢田は三日と空けずハラスメント行為をしていますし、また近いうちに動くでしょう。そして、残りの三日間で話しあいをセッティングします。喫茶店などの、人目のある場所がいい。私がボディーガード兼仲裁人として同伴します。今回の依頼で知りえた情報は守秘します。ご安心ください」
 探偵への報酬は、十日間の仕事で五十万円だった。リーズナブル。

 菅原は初めの一週間で証拠を押さえ、八日目に資料にまとめ、九日目に犯人に電話した。
 十日目の寒い昼。和田町わだまちの流行らない喫茶店。聖の目は泳いでいた。卓には、再度送りつけられた中傷FAXのコピー、その文字を切り抜いたゲイコミック誌の写真と、その受信時刻と同じころコンビニのFAXを使う聖の写真。印象は薄いが切れモンの探偵はいう。
「依頼人は、これを警察に提出し、きみを名誉毀損で提訴できる。そうなれば、きみは逮捕され、社会的信用を失うだろう」
 聖は国大の四年生だ。事件が明るみに出れば、おそらく退学。企業の内定もなくなる。聖の唇が震えだした。その切れ長の目に涙が溜まっている。私がこうやって反撃してくることを、聖はまったく想像してもみなかったのだろうか? アホや。
「だって、テツさんが、急に若い子に乗りかえるから。ぼくは、テツさんが好きだったのに」
 聖はぐすぐす泣きだした。聖は二十二歳、ガキに毛が生えた程度の若造だ。その将来を潰すことは、私の本意ではなかった。私は慎重な声をだす。
「もし、おれのいうことを、おまえがきいてくれるのやったら、提訴はしない」
 聖は硬い声をだした。「何?」
「今後、いっさい嫌がらせはやめてくれ。おれのことは、忘れてほしい」
 瞬きする聖。「それだけ?」
「ああ」
 聖は泣き笑いになった。「テツさん、人が好いよね」
「ええ人いうてや」私は人差指を立てた。「あと、これだけいわして。おれはな、ヒジリ、ほんまにおまえとしかつきおうてへんかったんやで。考えてみ。どこのピチピチのティーンが、こんなもっさいオッサン相手してくれんねん?」
「そのもっさいオッサンを相手したぼくは、どうなるんだよ?」
 私らは、小さく笑った。聖に会うことは、もうないだろう。

「ほら、あれが隠れゲイの……」
 社屋の廊下で、他部署の女子社員が囁いた。一連の出来ごとは、口さがないやつらの恰好の噂になっていた。小さな会社のことで、私の名前も顔も知れわたっている。私は大股でその場を去った。
 営業部の同僚や部下らも、腫れものにさわるように接した。気が悪かった。それでも、私は家族のために踏んばるつもりだった。
 着席と同時に、男の手に肩を叩かれた。毛塚部長だ。
「仕事中、悪いな」
 パテーション内のソファーに私らは移動した。部長の表情は硬かった。
弘明寺ぐみょうじにな、外商本部があるだろう。そこの企業外商主任のポストに空きが出てな。おまえ、来年度からそっちに行く気はないか?」
 一瞬、頭が空白になった。ようは左遷だ。
「その話、受けなくてはいけませんか?」
「それが、社長直々のご指名でな」
 情報は守秘すると菅原はいったけれど、もし雨宮社長からも依頼を受けていたならば、その限りではなかっただろう。彼との逢引を見られた可能性だってあった。断れば、本社営業部の係長でもいられなくなる。私は汚れたアルミの灰皿へ視線を落とした。
「いますぐ返事しろとはいわないさ。だが、まあ、よく考えてみろ」
 部長は煙草を咥えてから、私の肩をぽんぽんと叩いた。

 私は一週間の有給休暇をとった。自身の人生について考えたかった。遅めの冬休みだ。
 娘は学校、嫁は職場だった。暖房の効いたリビングで、私は即席麵に湯を注いだ。
 ケータイが鳴った。彼からか……と期待したが、違った。
『保土ヶ谷署の刑事課です。こちらは細川徹さんの携帯電話で間違いないですか?』
 おれは電話ちゃう、と思った。「はい、細川です」
『先日、盗難届を提出された自動車ですが、見つかりました。千葉県の海ほたるの駐車場に置去りにされているのを、管理人が通報したそうです。現在、千葉県警木更津きさらづ署が預かっています。なるべく近いうちに引きとりにいってください』
「千葉まで? 持ってきてくれへんのですか」
『残念ながら、そういった業務は承ってないんですね。われわれも多忙なものですから。もし何か特別なご事情がおありなら、こちらも考えますがね』
 脱力してしまった。ノンフライ麺を啜りながら、泣きたくなった。何かを恨みたかったけれど、元をただせば全て私が蒔いた種だ。
 どうせ暇だった。私は電車を乗り継いで、隣県の警察署まで行った。
 からかぜ。署の駐車場で、刑事に確認を求められた。横浜ナンバーの黒のトールワゴン、間違いなく私のものだ。リアバンパーに擦り傷ができ、左のテールライトが割れていた。車内の物が盗まれた様子はなかった。私と同年配の刑事はいった。
「指紋は拭きとられたような形跡がありました。毛髪はご家族以外の物を四人ぶん採集しましたが、前歴はありませんでした」
 小一時間ほど書類作成に引きとめられてから、私は帰途についた。東京湾アクアラインを抜け、首都高湾岸線を走るとき、冬の茜が眩しかった。私は日除けを下げた。はらりと何かが落ちた。
 細川徹さんへ・・・・・・。茶封筒の字は整っていた。

 細川さん
 あなたのおかげで、弔い合戦はうまくいきました。ありがとうございました。
 クルマをぶつけてしまって、ごめんなさい。先パイの駐車テクがいまいちでした。ガソリンは満タンにしておきました。修理代には全然たりないでしょうけど、ありったけのお金を入れておきます。
 あの竜のペンダント、大切にします。本当に、ほんとうに、お世話になりました。
 竜介

 嫁と娘が寝静まってから、薄暗いリビングで私は下半身だけ裸になって、ティッシュを用意する。インターネット通販で買ったインディーズDVDを開封し、装置にセット。街でナンパした子を脱がせて……という内容らしい。三十二インチのブラウン管に、雑な題字。激撮!・・・ 美形ヤンキーの性態‼︎・・・・・・・・・・ 私は期待に胸と股間を膨らませる。
 本編が始まる。どこかの神社の境内、桜の花の散るなかに少年が二人。私は片方の子に釘づけになった。彼―竜介りゅうすけだ。あの左目の下の黒子。間違いない。十七歳の今よりも、さらに幼い顔で彼はぎこちなく笑っている。下手したら中学生くらいだろうか。ショックだった。こんな清純そうな子が。もちろん、私はぎんぎんに勃起している。
 お揃いで首に鑑札をさげた二人は、対照的な美形だ。前髪をメッシュにした竜介は涼しげに整った日本人らしい目鼻で、金髪の相棒は大きな目が特徴的なエキゾチックな顔立ちだ。カメラマンが質問を投げかけ、二人はそれぞれに答える。絞った音量のチープな音楽ごしで、よくききとれない。能天気といっていい笑顔の相棒に対し、竜介は泣きだしそうな表情だ。
 場面が変わる。ハウススタジオの一室、純白のソファーで二人が服を脱ぎあう。相棒は恥じらいもなくビキニ一丁になる。竜介は上半身だけ脱いだところで、うつむいて固まってしまう。彼の白い薄い胸に揺れる鑑札の光。相棒は竜介に優しく話しかけて、宥めすかすふうにキスを繰りかえす。恋人同士のような雰囲気。相棒は竜介のジーンズに手をかける。ホックをはずし、ファスナーを分けて、トランクスごとずりおろす。修正モザイクは無しだ。半勃ちのペニスがぶるんっと頭をだす。なかなか立派。私は興奮して自身をぎゅうっと握る。
 竜介はつつましい陰毛と浅黒いペニスを曝して開脚している。相棒は半透明のアナルビーズで彼のアナルをいじくりまわす。庚申薔薇色の粘膜。竜介は恥じらって顔を背けている。相棒が何かいう。竜介はむずかって首を振る。彼の下半身だけが大映しになる。濡れて怒張したペニス、萎んだ陰嚢、ひらいたアナル。私は口を開けて観ている。
 竜介を、相棒は腰に跨らせる。対面座位。彼の可愛い尻に、相棒のなまのペニスがずぶずぶと沈む。竜介のしかめた顔。相棒は慣れたふうに腰を使う。彼は顔を相棒の首筋に埋める。こぼれる黒髪。背筋を這う手。弾む大腿筋。竜介のペニスを、相棒の手が苛む。竜介の頬が涙で光る。彼のアナルに出いりするペニス。いつのまにか、竜介は進んで尻を揺すっている。かすかな嬌声。きいていて切なくなる。やがて竜介が痙攣するように震える。(そこでスローモーションがかかって)彼は盛大にザーメンを飛ばして、胸をべっとり汚す。同じ瞬間の別アングルからのショットが三べん再生される。
 竜介はソファーにくずおれる。相棒はつがったまま竜介に覆いかぶさり、その唇を塞ぐ。二人は延々とキスしている。画面が溶暗フェードアウトして、本編が終わる。
 私はペニスを夢中で扱く。中学生に戻ったみたいな感じだ。射精の瞬間、叫びそうになって口を押さえた。長く大量にザーメンは溢れた。
 興奮が醒めて、憂鬱がやってくる。彼には、もう二度と会えない。

 私は異動の話を受けた。四月一日付で弘明寺の外商本部へ。企業外商主任は、ようは得意先への訪問販売員に毛が生えたものだった。口から先に生まれてきたような私だ。営業や接待自体は、それほど苦にならなかった。
 かえって勤務時間外のほうがきつかった。彼のことを考えてしまうから。二度と会えないのに。会っても仕方がないのに。忘れたくても、例のDVDがあるせいで忘れられなかった。手放すなんて、とてもできなかった。
 毎晩のように竜介のDVDを観た。彼と金髪の相棒、恋人同士のような雰囲気。二人の首に揺れる、お揃いの鑑札……彼の弔い合戦の対象は、この相棒かもしれない。なんとはなしに、そう思った。

「てっちゃん、瘦せたね」
 深夜の帰宅後、リビングの席で美幸がいった。そうか? と私は笑ってごまかした。実際、三キロ瘦せていた。美幸はいう。
「新しい仕事、きつい?」
「まあな。けど、やりがいはあるで。歩合制やから給料がアレで申し訳ないけど、おれとしては悪ないわ」
 そう、と美幸はうなずいて、横浜銀行の通帳を置いた。
「なら、五十万円の出費にまつわる話なんだ?」
 ざあっと顔面から血のけが引くのがわかった。美幸は頬笑んだ。
「洗いざらいきかせてもらうからね」
 嫁の言葉は絶対だ。私はしぶしぶ語った。竜介との出会い、聖との感情のもつれ、探偵を雇ったこと、竜介に車を貸したこと……。美幸は菩薩の顔できいていた。
「つまり、あなたは、その竜介って子に恋わずらいしてるのね?」
 図星を突かれて、私はうつむくしかなかった。「ごめんなさい。もうこのようなことのないように……」
「てっちゃん。わたしは責めてるんじゃない。あなたが男の人が好きなのは、承知で結婚したんだから」
 十九歳のころ、同性愛を自覚した私は、夜な夜な新宿で男をひっかけていた。なかば自暴自棄だった。それを大学の誰かが見かけたのか、良くない噂が立った。そんな私をかばったのが、ジャズ部の先輩だった美幸だ。そんなわけないじゃない、細川くんはわたしとつきあってるんだから。あの日から、私は美幸に頭があがらない。
「わたしはセックスって、どうしても好きじゃなくて。でも、子供は欲しかったの。それを叶えてくれたあなたは、最高の旦那さん。だからね、美翠さえ不幸にしなければ、あなたの気のすむようにしてくれていいの」
 美幸は深くうなずいて、私の手を握った。左薬指に、お揃いのゴールドリング。その手のたおやかな力に、私はついにこらえきれなくなった。目玉が茹ったように熱くなって、涙がだらだらと流れた。ついでにはなも垂れた。私は果報者だった。

 天王町てんのうちょうシルクロード商店街、縦列のコインパーキングに車を停めて、私は慣れない街を歩いた。県立保土ヶ谷工業高校―通称・程工ホドコーは一丁目だった。見知らぬ学校だが、全国共通のチャイムは懐かしく響いた。無個性な紺ブレザーが、正門をちんたらと出ていく。男女比は五対一というところ。門前の背広の中年男に、生徒らの訝しい視線。これが女子高なら、すぐ通報やろな、と思った。私は、ただ待った。
 遠目に、その姿は浮きあがるようだった。髪を染めているわけでも、荒い動作をしているわけでもなく、しかし何かが彼にはあった。……いや、それとも、子供の群れから瞬時にわが子を見つけられるような、本能的な感覚に近いのだろうか。彼は―露木つゆき竜介は考えこむかにうつむき加減にやってきた。が、正門手前で立ち止まった。呆然と瞠られた、青みがかった目。
「……どうして?」
「大人にはな、いろいろツテがあんねん」
 私はにやりと笑った。彼のナイキのスニーカーがそわそわと動く。
「あかんで。おまえんちの住所もわかってる」
 竜介は唇を嚙んで、踏みとどまった。
「とりあえず、場所変えへん?」
 駐車料金を清算しているまに、彼は素直に助手席に乗りこんだ。私も運転席についた。
「あんた、ストーカーかよ」
 竜介がぼやいた。ふてくされた横顔。
「まあ、客観的に見たら、それやな」
 私は車を切り返して、発進させた。横浜方面へ。彼はしおらしくいう。
「車ぶつけたのは、ごめんなさい。修理代、全額かえすから……」
「ええよ、そんなん。それよりも」私はネクタイを緩めた。「どうやったんや?」
「どうって、何が」
「決まっとるやんか、弔い合戦。詳しくきかな、気になって気になって夜も寝られへん。おかげでおっちゃん三キロも瘦せてんで、三キロ」
 三本指を立てた。笑っていいのか、竜介は判断に困ったようだった。私はにっと前歯を見せた。上の二本は差し歯だ。大昔の喧嘩で折れたのだ。
「洗いざらいきかしてもらうで。お好み焼きでも食べながらな」
 じつのところ、彼が何者でもよかった。とんでもない跳ねっかえりの予感はするが、それも一興だ。竜介は笑った。
「ほら、あんたがくれたやつ」
 彼は首の鎖を引っぱった。カッターシャツの襟から、銀のドラゴンの頭。真っ青なトルコ石の眼。
 同じ青さの春空が、フロントガラスごしに広がっていた。バックミラーのアンモナイトQが揺れた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?