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「萌え」の構造 ~聖と俗の幾何学~

今はなき「國文學」の特集で書いたもの。先日、劇作家の岸井大輔さんに面白かったとの感想をいただいた。だれにも読まれていないと思っていたのだが、偶然とは面白い。

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以前見た落語の枕でこういうものがあった。
「えー、最近の日本では秋葉原が元気だってね。メイド姿のおねーちゃんや、妙な格好した若い子がいっぱいいるんだそうで。外人なんかも観光名所として秋葉原によく来るらしくて、日本といったら「ワビ」「サビ」と「モエ!」(客席爆笑)」
つまらぬ。
まったく笑えぬ。
しかしこの私の笑えなさと、笑っている客の溝に、現在の「萌え」をめぐる言説の問題がある。

漫画やアニメなどのサブカルチャーが、日本の誇る文化となって久しいが、それに付随する「萌え」について語るとき、人は即座に、メガネをかけリュックを背負い巨体を揺らしながら歩くモビルスーツのような典型的なオタクを思い浮かべる。このイメージは海外における日本人の典型的イメージ「メガネをかけて首からカメラをさげたエコノミックアニマル」というのとなんら変わらない。そこには先の落語のように、内実を知らずにイメージだけをもてあそぶ空疎さしかない。しかし「萌えは日本独自の誇るべき文化だ!」という今となってはありふれた主張が、多くの人の眼にはまだ滑稽に映るのも確かである。これは「萌え」を誰も、客観的視点からきっちりと位置づけることができていないからだ。
かつてオタク文化が日本独自のものでしかなかった時代があった。そのとき、岡田斗司夫は「おたく」を「オタク」にし、確信犯的に日本の伝統文化の流れの中に位置づけようとした。その戦略は成功し、いまや「オタク」は世界で受け入れられ「OTAKU」になった。説の正統性はともかく、他の文化と接続可能なだけの説得力があったのは確かである。そして、金の匂いをかぎつけた大人達が投下した資本によって市場が賑わい、コンテンツが増加する。その大人たちの欲望の上に、現在の我々の充実したオタクライフは成り立っている。本来のオタクは大人の入る余地がない独立した子供の王国だったはずだ――などと嘆いても仕方ない。現在の状況を作り上げたのは、まぎれもなく消費者である我々なのだ。この「萌え」をメインにした現在のオタク文化の在り方も、我々自身から生まれたものであることを受け入れなくてはならない。
オタク文化と違い、主観的な感情である「萌え」は感じるもので、語るものではないのかも知れない。もうしそうだとすれば、それは少数派だけのものとなり、いつかは消えていくだろう。「萌え」が世界に誇る文化だと言うのも、結構。しかし、それを言い切るならば、その者には説明責任がある。かつて「オタク」を世界に説明した岡田斗司夫のように。
今回の原稿のお題が「宮崎駿」「押井守」「庵野秀明」「新海誠」それぞれの萌えについて、ということなので、まずは前提である「萌え」についての定義をしなければ話を進められないので、今から私なりに「萌え」の構造を解析する。

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