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12~13 ニーチェと忘年会・意識は背骨にあるのか


12月12日(火)

▼ニーチェと忘年会

人は常にどちらかしか選べないが、選ばれなかったほうはどこへいってしまうのだろうということについて考える。
たとえば以下のような話があるとしよう。
年末は忘年会の季節。家庭を持つお父さんたちは奥さんに「また忘年会!?」などと小言をいわれることが多いはずだ。そしていつしかお父さんたちは忘年会の断りに「カミさんがうるさくて」とか「家族サービスなんだよ」とかいうくだらない言い訳をし始める。そう、かつて憎んでいた大人そのものになってしまうのである。
本来、人は自由に思うがままに生きるべきなのである。人がこう思うから……とか、他人にこう思われるから……とか、外部に判断をゆだねはじめると、純粋な人間から遠ざかっていく。
こうした意思の問題を論じるときによく引き合いに出されるのがニーチェである。
ニーチェは常に自分の奥底から欲することを意思のままになせといった。
他者がどうのとかは無関係に、自発的に生きることを説いたわけだ。
たとえば忘年会に行きたいと思うお父さんは家族を捨ててでも行くべきなのであり、それこそが人間的な行動なのである。なぜならばそれが純粋な意思に従うことだからだ。
この意見には賛同するが、現実的に考えていくつかの問題がある。
ご存じの通りニーチェの哲学は「超人」という思想に貫かれており、ニーチェ自身もかなりエキセントリックな人間であったわけで、その哲学は「そんなの無理だよ!」ということの連続だ。
多くの凡人の意思はひとつではない。
お父さんが「忘年会に行きたい」と思うとき、同時に「忘年会に行かずに家族と過ごしたい」と思っているし、「家で鍋を食べながらテレビが見たい」とも思っているだろう。
意思の成分はいろいろな割合で混じり、重なり合っており、優先順位も曖昧だ。
こうした形の意思は他者の介入によって容易に割合がかわってしまう。
ちょっと仲の良い人に誘われたり、逆に嫌いなやつに誘われたり、そういったことで行動の優先順位が変わる。
これはニーチェ的にはあってはならぬことだ。
しかし我々はニーチェではないゆえに、そうしたことでついつい判断を揺らがせてしまい、後悔する。なぜなら我々は超人ではなく凡人だからだ。
そして、他者の介入によってなされた選択は、つねに純粋ではないがゆえに、選ばれなかった選択のほうが正しかったのではないかという予感に満ちている。
これは感覚的なものであるが、凡人にとって哲学する可能性があるとしたら、この後悔というものこそがそれではあるまいか。
超人の哲学に対して、ぼくは凡人の哲学について考えたいのである。
が、しかし、それはもはや純粋哲学と呼べぬ、いわばたんなる生活のなかの人生訓のようなものに堕してしまっているのではないかという懸念がなくはない。

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