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せやま南天『クリームイエローの海と春キャベツのある家』《砂に埋めた書架から》70冊目

 昨年行われた、note主催による「創作大賞2023」において、お仕事小説部門の朝日新聞出版賞を受賞したのが、せやま南天『クリームイエローの海と春キャベツのある家』だった。「創作大賞2023」は小説のみならず、エッセイ、漫画原作、イラスト、映像作品など多岐のジャンルにわたって広く作品を募る大規模なもので、およそ三ヶ月の募集期間で集まった作品の総数は、最終的に33,981という数だったようだ。この中で、「お仕事小説部門」の応募がどれくらいあったかは調べていないのだが、かなりの数だったろうと推測される。そこから選出されたということを考えれば、相当な幸運に恵まれた作品であったと言えるが、決して運ばかりでないことは本作を読めばすぐにわかる。私が最初に思ったのは、するすると読めてしまう滑らかな筆致。書かれていることがしっかりと伝わり、そのうえで読み心地がいいこと。冒頭からいきなり変わった事件や気懸かりな出来事が起こるような小説ではないにも関わらず、気付くと作品に引き込まれ、何ページも進んでいる。そんな圧倒的な読みやすさがこの小説にはあるのだ。どこにその秘密があるのかを考えたとき、私はこの作者の文章には余計な自意識が排除されている点が大きいのではないかと思った。文章に気取りがなく、言葉に素直さが滲み出ている。だからこそ、主人公の考えや思い、決断から行動までが、読者へ真っ直ぐに伝わってくるのではないだろうか。この作者の率直で飾らない文体は、そのまま、本作の主人公永井津麦ながいつむぎを体現しているようだと私は思った。

 永井津麦は、家事代行サービスに派遣登録して三ヶ月になる二十八歳の新米スタッフだ。物語は、週五日働くために、水曜日の空いている一枠を埋めようと、津麦が新規のお客様を獲得したことに始まる。家事代行の依頼主は、建設現場で働きながら五人の子供を育てているシングルファーザーの織野朔也。今年の冬に妻を癌で亡くしており、十三歳の長女を筆頭に、十一歳、九歳、五歳、一番下はまだ二歳という子供たちがいる家庭である。これまで担当してきたお客様の家庭とは様子が違うであろうことは想定していた津麦だったが、実際に織野家に足を踏み入れた彼女は、そこで、これまでに見たことのない光景を目にして衝撃を受けるのだ。

 この小説は、家事代行業を扱った仕事小説であると同時に、主人公の永井津麦が、家事を通じて依頼者家族と接する中で、家事の本質を、ひいては新しい自分を発見していく成長小説でもある。

 津麦はかつて商社に勤務していたが、ハードワークが続いて倒れ、復帰を果たせないまま退職する挫折の経験を持つ。また、自分に家事を仕込んでくれた母親に対しても、複雑な感情を抱いており、未だに解消できないでいる。そのような背景を抱えた彼女が、家事くらいなら自分にもできそうだと考え、社会復帰の足掛かりとして選んだのが、家事代行サービスの仕事だった。ところが、織野家を担当したことで、津麦は様々な困難にぶつかることになる。

 この小説が、成長小説である理由は、目の前にある問題に弱音を吐きながらも、決して諦めずに解決へ向かっていく、清々しいほどの津麦の姿勢にある。この小説には津麦のお手本になってくれるような家事代行のスペシャリストは登場しない。唯一、派遣会社の男性相談員である安富さんが、津麦の話を聞いてくれるだけだ。彼は具体的な指導はしないし、方法を説いて強制することもしない。たびたび弱音を吐きにくる津麦を受け止めたあと、家事代行の心構えを適切なタイミングでふわりと投げかけるだけである。だが、その何気ない言葉が、津麦に限らず、読者にとっても心に響き、気付きを与える金言になるときがあるのだ。家事くらい、と考えていた津麦は、自分が未熟だったことを自覚する。それでも責任感から、織野家の家族と誠実に向き合っていくことを選択するのだ。家事代行のプロとして。

 仕事小説の題材に、家事代行サービスを取り上げた作者の目の付け所は素晴らしい。世の中には、家事という仕事を軽んじている人がいるのは事実だ。(実際、本作の中でも津麦自身が家事を軽く考えていたと述懐する場面がある)。しかし、想像力を働かせてみるといい。あらゆる家事をストップすれば、その瞬間から台所には洗い物が溜まり、洗濯籠には汚れた衣類が積み上がり、家の中はあっという間にゴミで溢れかえる。効率や合理性という概念は霧散し、生活は荒廃の一途を辿るだろう。逆に言えば、きちんと整頓され、隅々まで綺麗で清潔な印象をもたらす家は、それだけ家事をする人の手がかかっているということなのだ。見落としがちだが、家事ほど人間の基本生活を支えている大事な仕事はないのである。三世代や四世代が同居する大家族が少なくなった今、家事をたった一人で行っているという家庭は多いと思う。本作の主人公永井津麦が、たった一人で現場に立ち、問題解決に奮闘するのも、そんな孤独な家事従事者に向けてのメッセージでもあるのだ。

 さて、この作品の原型ともいえる創作大賞の応募作は、昨年、noteに公開されたが、私も賞の応募期間中に、『クリームイエローの海と春キャベツのある家』をたまたま読ませて頂いた。最初に書いたように、文章が読みやすく、そして、物語の運び方も上手で、一度も引っ掛かることなく読み終えたことにある意味感服したのを覚えている。この作品が中間選考を通過したのを見たときは、やっぱりなあと思ったし、最終的に賞を射止めたのを知ったときは、まさにお仕事小説部門の賞に相応しい作品だと思って喜んだ。今年の四月に書籍デビューを果たし、さらに本書は重版が決定したという。これは本当に凄い。芥川賞作家の長嶋有氏が「作家の好きな言葉」というエッセイを書いていたのを読んだことがあるのだが、長嶋氏はサインのときに好きな言葉を書くように頼まれて「増刷」の二文字を書き添えたという。「増刷」も「重版」も意味は同じだろう。「出版社が見積もった以上に、世界が自分を欲してくれた証しでもある」と長嶋氏はエッセイで述べていた。本の出版には多くの人の手が関わっていると聞く。織野家の冷蔵庫の中で輝いていたあの春キャベツのように、せやま南天さんのこの本が、書店の棚でこれからも永く輝きを放っていることを、私は一読者として、また、一人の家事従事者として願っている。

2024/04/23


書籍 『クリームイエローの海と春キャベツのある家』せやま南天 
朝日新聞出版

綺麗な装丁

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※記事内で引用した長嶋有氏のエッセイ「作家の好きな言葉」は、『いろんな気持ちが本当の気持ち』筑摩書房、に収録されています。



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