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#16 能登へ(3)

「すずなり館」から東へ歩くこと8.8 km。
粟津地区に着いたのは正午ごろだった。
予定していた時間内に折り返し地点に達し、あとは15時のバスに間に合うように元来た道を戻ればよかった。

前回記したとおり、粟津では、製塩業を営んでいた事業者の方のことを、偶々出会った地元の方に教えてもらった。
辛い事実を聞いた上で、ご親族の元を訪ねる気にはとてもなれなかった。
海岸沿いの道を歩き、持参してきた「能登半島 珠洲の塩協議会」のパンフレットの写真を見ながら、ここかもしれないという場所の前を通った。
道路に面した建物は、瓦をのせた屋根が地面に崩れ伏していたが、その奥の作業場らしい建物は無事に残っていた。

目の前には、穏やかな海が広がっている。
その海の水から塩を取り出し、人々の食卓へと運ぶ。
自然と向き合い、時間をかけて得られた恵みを、感謝して頂く。
そんな営みがそこにあったのだ。

粟津海岸

私は海岸に留まり、気が済むまで辺りの風景を目に焼きつけた。
水平線に陸地が見えない広い海の景色は、私の生まれた瀬戸内の町にはない。
それでも、粟津の浜辺に流れる時間は、瀬戸内海に浮かぶ島の小さな浜辺を私に思い出させた。
そこは幼い頃に家族で海水浴に行った場所で、もう何十年も行っていない。
そして、能登と瀬戸の浜辺は600km離れている。
なのに、同じ潮風で、同じ水や砂の色で、繋がっているように思えた。
目の前の海のことを、私と同じように懐かしむ人がどこかにいるのだろう。
人の戻った粟津の海が見たい。
また戻って来なければならない。

あちこちに見られた崩れた屋根

バスに乗るまでの帰路については、ほとんどが前2回と重複するから書かない。
ただ、往路とは異なる部分が少しあるので要点のみ記しておく。
帰路のバスは「すずなり館前」ではなく、その一つ先の「珠洲市役所前」から乗ることになっていた。
なぜなら、市役所の少し先に、もう1ヶ所だけ行っておきたい場所があったからだ。

「すずなり館」の1kmほど手前から、往路では歩かなかった海岸の道へ出た。
海岸の道までの途中、地域の集会所があり、脇に建てられた大きな忠魂碑が倒れていた。

忠魂碑

そこを過ぎると、田んぼの脇に木製の角柱が建ててあり、角柱の隣り合う二面に「埋蔵文化財包蔵地 野々江本江寺遺跡」「全国最古の木製笠塔婆・板碑出土地」と書かれていた。

「全国最古の木製笠塔婆・板碑出土地」

詳細には触れないが、平成18年の圃場整備中に平安時代末期の木製品4点が出土した場所だという。
それほどの昔から、人々はこの土地で暮らしをつないできたのだ。

海岸の道に並ぶ家々も、全壊や半壊の被害を負ったものが目立った。
その様子はニュース報道でも流れていたからここには載せない。
代わりとして、菅原神社(野々江町)の様子を見れば十分だろう。
下水道のマンホールも路面から突き出ていた。

被災した菅原神社
突き出ていたマンホール

徒歩行最後の目的地は、「能登塩田再興碑」という石碑だ。
時間に余裕がなかったので急ぎ足で向かうと、それは町中のよく目立つ場所に立っていた(記事トップ画像)。

「能登塩田再興碑」

再興碑は、明治期に活躍した藻寄行蔵(1820-1886)という地元の医師の功績を讃えていた。
江戸時代末まで人々の暮らしを支えていた製塩業が、明治4年の廃藩置県に伴う塩手米制度の廃止によって窮地に立たされたところ、この人が政府から資金の貸付を受けて、人々を指導し、見事に製塩業を再興したのだという。
碑は、行蔵が亡くなった翌年、明治20年に建立された。
碑の立っている場所は、加賀藩御塩蔵の跡地。

碑の解説

建立から1世紀以上が経ち、さすがに亀裂も走っていたという。
そこで平成25年に大規模な修繕が行われ、今回の地震では事無きを得たようだ。
碑に刻まれていることは、何気ない郷土史の1コマかもしれない。
しかし、こうした先人の存在は、後世の人々を励まし続け、今も地元民の心の拠り所となっているのではないかと思う。

https://www.city.suzu.lg.jp/uploaded/attachment/2756.pdf

予定していた行程を終えて、「珠洲市役所前」から定刻のバスで金沢への帰路に就いた。
震災復興の道のりは、まだ先が長いだろう。
まずは全ての人の足元の生活が整うことが最優先。
その上で、先の記事でも少し述べたが、地域の持続可能性という問題も避けられない。
単純な再建だけでは十分でなく、既存の社会にはない新しい仕組みや発想による地域づくりが必要なのかもしれない。

大切なことは人の繋がりであり、人がもたらすものを、その場所に根付かせ、積み上げていくことだろう。
長い伝統によって培われてきた製塩業は、これからの能登が各地とつながるための鍵になるかもしれない。
特に珠洲に残る揚浜式製塩の技は、産業でもあり、芸術でもある。
大きな力が宿っていると思う。

それからもう一つ思ったことがある。
それは、能登の風景の中に羊が飼われるという未来だ。
ときに優しく、ときに荒々しい日本海岸に、羊の生きる姿があっても不思議ではない。
イギリスのウェールズやスコットランドに通じるものがあるように思える。

羊のいる風景を想像しつつ…

石川県では今、金沢の南の白山市で牧羊を手がける人たちがいる。
そして、白山神社の祭神である白山比咩(菊理媛尊)の名前には、なぜか「比売」ではなく「比咩」が当てられる。
「咩」は羊の鳴き声を表す漢字だ。
偶然だろうか、それとも遠い由来があるのか。
いずれにしても、「塩」も「羊」も、能登の復興に寄与する存在のように思えてならない。

金沢の街には、ここ2年ほどでジンギスカン・羊肉料理のお店がいくつか出来たらしい(閉めた店もある)。
能登から戻ったら食べに行こうと意気込んでいたが、残念ながら第1候補は前日予約制、ほかの2軒は少し距離があり、この日は歩き疲れたので諦めた。
結局、候補店の1軒が金沢の繁華街で営むハンバーグ屋で腹を満たした。

金沢の週末は宿賃が高かったので、風呂で汗を流してから夜行バスへ。
東京へ向かう車中、瞼に焼きついた能登の景色が既に懐かしかった。
また戻ってくる。
<終わり>

粟津の海よ。

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