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「言葉に対する無知と偏見」

「言葉に対する無知と偏見」


私が何度も繰り返し書いている内容である。

ある記事を読んだ。

画家としては知名度のある人物の発言である。

「今日では抽象表現は限界に来ている。既にあらゆる抽象表現方法は出し尽くされて再び具象に回帰している」と。

実名は明かさぬが、自分の限界をこのように断定すること自体、自己怠慢という自覚が全く無い。

大方の表現者はこのように考えているか、表現は自分の好き勝手に自由で良いという趣味趣向の範疇の域を出ていない。

そもそも具象抽象という線引き自体が曖昧なのである。

形の有無に限らず表現は常に抽象・元素の集合体の顕れである。

詩人のR・ランボオが言ったように「形が必要であれば形を与え、不必要であれば与えぬ」と、これ以上でも以下でも無い。

表現自体に我々は何でも命名をする。

これは何か名称が無ければ不安が生じるという事に由来する。

この問題は表現に限らない。日常一般の全てに当てはまる。

恐らく、このような物言いをすれば多くの異論反論が来る。

自己認識に限界が無いように表現方法にも限界など存しない。

自分自身で勝手に自己の限界線を引くだけである。

可視不可視に限らず万人に実証、証明認知されなければ信じ難いと言うだけのことである。

哲学者カントの命題「もの自体には到達し得ぬ」という実体無き概念を鵜呑みにした

唯物論的思考、観点からすれば一見筋が通った論理に思えるだけで、これも単なる思考による矛盾を孕む主観的一考察にすぎない。

「もの自体」という理解し得ぬ概念を勝手に仮定してその仮定した実体を問えぬ、知り得ぬという浅薄な論理なのである。

この問題は日常に満ち溢れている。

生物的生、衣食住にのみ安寧している魂にとっては真に都合の良い一解釈、便利な言葉の道具である。

無目的こそが目的、無意味が意味であるという虚無的世界観が猛威を奮っている。

換言すれば、死ねば終わりという一考察による観点。

実体なき無常観、虚無観に呪縛された個人の魂。

相対的世界観、相対主義者、これに人々は「自由」という実体無き名称を与えた。

古今を問わず、如何ともし難い、厳しい状況に我々は生きている。


2009年04月09日

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