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初心忘るべからず

 ここに来る前、別のブログに2ヶ月ほど書いていた記事を、少しずつ転載していた。今日はいしかわゆきさんの「1ヶ月書くチャレンジ」最終日の記事を載せたところだ。
 転載にあたって、誤字脱字や補足の必要なことがないか、読み返してから転載しているのだが、ちょっと思うことがあったので書き残しておく。


3ヶ月前の自分の気付き

 「1ヶ月書くチャレンジ」をしたのは今年の1月。1月31日の私は、こんなことを書いていた。

 読み返してみて思ったのは、「しんどいときの記事のほうが、感情が出ていて、自分としては味わい深い」ということだ。

(中略)

 なんというかこう、しんどいときの私は、むき出しの感情をさらけ出している感じがするのだ。余所行きのオブラートをかける余裕がないからなのだが、それが逆に味になっている、気がする。

2024.01.31 Day30.毎日書くチャレンジ

しんどいときの記事があとから見て、少なくとも自分にとっては味わい深いのを思うと、これからも書いていくことが、まわりまわって自分を救うのかもしれない、などと思ったりもする。

2024.01.31 Day30.毎日書くチャレンジ

 ……すっかり忘れていたが、私はブログを毎日書き続けること、それも、しんどい日こそ記事を書き残しておくこと、で、まわりまわって自分を救える、と考えていたらしい。

 最近、元気と時間の両方がある日しか記事を書いていない今の私には、寝耳に水の話である。

noteに来てからどうしてさぼっていたのか

 移転前はたしかに、毎日記事を書いていた。元気な日も、つらい日も。
 じゃあなんで、noteに来てから記事を書かなくなったのか? 理由はふたつ思いついた。

肩に力が入っている

 以前ブログを書いていたサイトでは、他者の様子が見えないようにデザインされていた。そうすることで、他者の視線を気にせずのびのび書ける利点があったし、逆に、見られている実感を求めたい私にはちょっと物足りないという欠点もあった。

 だからnoteに移転してきたのだが、ここでは他者の視線だけでなく、他者の記事も見える
 私はおすすめで上がってくる記事たちを見て、委縮してしまったのだ。

「こんなに立派な記事ばかりが載っているnoteに、しんどいときの頭が働いていない記事なんて載せられないよ……」

……というように。

 しかし、私は今、「日記」でnoteの検索をかけた。とくにこのタグではそうだろうが、私の想定する「頭が働いていない記事」よりももっとゆる~く書かれた記事が、たくさん存在していた。
 幽霊の正体見たり枯れ尾花である。びびることはない、私もゆる~い記事を載せたっていいのだ!

連続投稿バッジをとるだけならつぶやきでもいい

 もうひとつ、私が気を抜いてしまった要因がある。

 私は「連続投稿」のバッジがほしいとは思っていた。しかし、前述の通り、肩に力が入っているので、めったやたらな記事を書けない。そうなると、どうすればバッジの記録を維持したらいいのか?

 ――つぶやきである。

 noteには「つぶやき」という機能がある。140字以内で簡単に気持ちを残しておける、あれだ。noteのシステムとして、つぶやきもひとつの投稿とカウントするらしく、つぶやきを投稿したら連続記録が維持されるのだ。

「つぶやきなんだから、気が抜けてたってしょうがないよね?」

 そんな意識で、つぶやきを量産していた。

 しかし、やはりnoteは「記事を投稿する」ところである。つぶやきのほうが数が多いのでは、せっかくnoteにやってきた意味がない気がした。
 つぶやきには残せない心の機微こそが、将来の自分を救うかもしれないと考えたら、本当にただ数を稼いでいるだけの無意味な投稿だ。

 前項で「しんどいときの頭が働いていない記事を載せてもいいのだ」と気付いた私なら、ただの数稼ぎではない、毎日投稿ができるはず。……できるよね、理花?

日常にこそ「私」が表れるかも

 元気な日の、きちんと考えを巡らせて書いた記事もいいが、心に余裕がなくて、気持ちがむき出しになっている記事にも、「私」は宿るはずだ。むしろ、むき出しになっているぶん、「私」という人がどんなものか、強く表れるかもしれない。

 私が伝えたいと思ったこと、それを伝えようとしたときに、「どんな人なのかまったくわからない人」から言われるより、「どんな人かわかる人」から言われた方が、すんなり受け止めやすそうだ。

 だから、また今日から、毎日書くチャレンジを再開しよう。初心忘るべからず、忘れても、思い出したときから、もう一度。


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