見出し画像

文体を使い分ける重要性


1 二つの文体


色んな文章を読む過程で、文体は二つに分けられると思うようになった。一つは、一文が短く、文構造が簡潔な類である。もう一つは、一文が長く、文構造が複雑な類である。前者の例を挙げるならば森鴎外であり、後者の例を挙げるならば谷崎潤一郎であろうか。

私は森鴎外と谷崎潤一郎について詳しくはない。彼らの作品を全て読破したわけでもない。従って、彼らの作品の良し悪しについて、論評することはできない。けれども二人の作品を読んでいて、面白いと思ったことがある。それがすなわち、両者の間にある文体の違いであった。

鴎外の文章は、静かな感じがする。『渋江抽斎』のような長い作品であっても、全体としては静かであった。一文一文は短く、それが作品を通して淡々と積み上げられる。

それに対して谷崎の文章は、豪華な感じがする。取分け「陰翳礼讃」は、そう感じた作品だった。複雑な造りをした文章が、次から次へと押し寄せてくる。

2 文章の明晰さは文体によるものか?

このように鴎外と谷崎の文章は、私にとって対照的なものに思えたのであるが、明晰さを備えている点では共通していた。この点について、少し考えてみたい。

谷崎の文章を読んでいて、凄いと思った所は、文章の構造が複雑であるにも拘らず、読み手に意味が伝わる点である。文構造を複雑にすると、意味不明な文章になりがちであるが、谷崎の文章はそうした事態を巧みに回避しているのである。

それでは鴎外の文章はどうであろうか。その明晰さは、文構造の簡潔さによるものなのだろうか。成程、それも一つの要因なのであろうが、そればかりではない気もする。

まだ学生だった頃、「一文が長くならないようにしなさい」と教わった。その指導の意図する所は、大凡こういうことなのだろう。谷崎のような文豪でもない限り、一文が長くなると文章が意味不明になりがちである。だから君たちは無理をせずに、一文を短くして、意味の通る文章を書くようにしなさい、と。

この指導方針には概ね賛成である。けれども事はそう単純ではない。なぜなら、一文一文は短いが、明晰とは言えない文章も存在するからである。実際に、そのような文章を書く人に出会ったこともある。鴎外の文章の明晰さを、文体の簡潔さによるものと言い切れない所以である。

3 文体の使い分けが明晰さを生む

それでは文章の明晰さを生むものは何なのだろうか。私見を述べるならば、それは文章の躍動感であると思われる。

この記事の冒頭において、一文が短く、文構造が簡潔な文体の例として鴎外を挙げ、一文が長く、文構造が複雑な文体の例として谷崎を挙げた。けれども二人の文章は、必ずしも上記のような文体だけで埋め尽くされているわけではない。鴎外の文章にも、複雑な文構造の箇所があるし、谷崎の文章にも、簡潔な文構造の箇所がある。

おそらく鴎外も谷崎も、一文を短くする方が有効な場合と、一文を長くした方が有効な場合とを見分けることに、力を入れていたのではないだろうか。そして彼らの弁別の見事さが文章に躍動感を与え、その躍動感が読者に「もっと文章を読み進めたい」と思わせているのだろう。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?