「働かざるもの食うべからず」の用い方について決着をつけておこうか

「働かざるもの食うべからず」の用い方について決着をつけておこうか

 ネットで「働かざるもの食うべからず」について取り上げると、ほぼ毎回と言っていいほど、こういうツッコミを受けます。

「この言葉は(不労所得で生きる)資本家に向けた言葉です。労働者に向けた言葉ではありません」

 もうね、こういうツッコミにはほとほと疲れます。今後「いいからこれを読め」とリンクを張るためにこの文章を書いておきます。

 まず最初にどこからこの言葉が生まれたかを調べてみます。
 wikipediaによると、最初は聖書に登場した言葉のようです。

新約聖書の一書でテサロニケの信徒への手紙二という使徒パウロの書簡といわれるもののなかの3章10節にある「働きたくない者は、食べてはならない」が元になった慣用句である。これは「働きたいが働けない人は食べてもよい」との条件下での言葉である。後にかつて存在した社会主義国であるソビエト社会主義共和国連邦の1936年のソビエト社会主義共和国連邦(いわゆる「スターリン憲法」)の第12条に労働の義務規定として盛り込まれた

第12条 ソ同盟においては、労働は、『働かざる者は食うべからず』の原則によって、労働能力あるすべての市民の義務であり、名誉である。

 この場合の意味は、金があろうがなかろうが全人民、市民は働かねばならない。例外は「働きたいが働けない人」だけであり、他は全員働くことが、食べる=生きる条件です。

 共産主義革命においてこの言葉は、労働者層から「金を持っているという理由で」働かない富裕層に対して投げかけられる言葉として使われるようになります。なぜなら金がある無いというのは、働く能力とは関係のないことだからです。金があろうがなかろうが俺達と同様の労働をせよ、でなければ生きる資格はない、と。「金があるから働く必要はない」という言い訳は通用しなかったし、働けない理由にもならなかったからです。

 旧東ドイツでは、一定期間を超えて無職である人間には国家が強制的に労働を割り振ったそうです。もちろん国家が病気であると認めた人は別ですけどね。
 旧東ドイツは共産主義国家ですから、もちろん貧富の差は関係ありません。善悪は、働いてるか否かで変わるわけです。
(つい先日、ベラルーシが同様の規則を実施し大騒ぎになってます。昔に戻るのか、と)

 まずここまでが、本来の意味での「働かざるもの食うべからず」の用い方です。共産主義国家は本来の意味でこの言葉がルールとなる社会を作ろうとしたわけですね。
 ですがその共産主義国家は事実上失敗し、一部をのぞいてほぼ全世界が資本主義国家になってしまいました。資本主義においては「金があるから働かない」は自由な選択肢の一つとして許容されます。不労所得、株の配当で暮らしている富裕層というのは、ある意味ではその金・株式でその会社の労働者を働かせ、上前をはねて働かずに生きているわけです。

 これが当たり前の生き方として許容される社会において「働かざるもの食うべからず」は、資産が無いのに労働をしない人間に食う(生きる)資格は無いというふうに、資本家から普通の労働者・庶民・貧困層に向かって投げかけられる言葉に変わってしまいました。

 富裕層は、お金があるおかげで働かないでも食う(生きる)資格を得られます。ですがお金がない庶民は、なんらかの形でお金を得なければその資格を得られません。資本主義である以上、これが原則です。
 そこで資本家は、労働者に対し「食いたいなら働きなさい。働かざるもの食うべからず。だけど私は金があるから働かなくても食います」と言うようになってる。

 本来は所有資産の有無に関わらず働く能力がある人は全員が働かないとダメという意味だったのに、資本主義社会においては金があれば働かなくても食えるという選択が許されるようになり、結果、働かないと食えない人々、資産の無い庶民や貧乏人に対し投げかけられる言葉になってしまったわけです。

 さらに話をややこしくしてるのが、お金がないのに働かずに食えている人の存在です。もっともわかりやすい例は、生活保護受給者でしょう。これは純粋な資本主義ではなく社会民主主義とかから出てきてる政策ですので、本来の資本主義の大原則を当てはめる話ではないのが、話をややこしくさせる原因でしょう。
 彼らに対し普通の人が怠け者と非難し、「働かざるもの食うべからず」だと責め立てるわけです。2ちゃんねるやツイッターでとてもよく見かける光景です。
 ですが彼ら受給者は、語源となった聖書においても「働きたいが働けない人は食べてもよい」という例外的な存在です。「そういう人は問題ないよ」と言う人もいますが、そうでない人(たとえば役立たずは安楽死させろと言うような人)もいます。今回はどういうシチュエーションで言葉が用いられるかの話なので、制度の正しさや問題点の話は脇に置きます。

 以上のことから、現代日本社会において「働かざるもの食うべからず」という言葉は、以下の用途で用いられていると言えるでしょう。

1.お金を持っている資産家が、お金を持たない庶民に対し投げかける。
2.資産家および働いてる庶民が、お金もなく働いてもいないのに生きている存在(主に生活保護受給者をイメージ)に対し投げかける。

 もともとの用い方は、3。

3.お金があるからという理由(「不労」所得があるという理由)で働けるにも関わらず働かない資本家に対し、働いている庶民が投げかける。

 3自体が聖書を元に出てきた発想なので、より正しく言うなら、こうなるでしょうか。

4.一日なさざれば一日食らわず

 なんだこれ? と思われる方が多いと思いますが、これは仏教の禅宗で生まれた言葉です。一日働かないなら、一日なにも食べる資格はないよみたいな話になります。もともと中国やその影響を受けた日本では、「働かざるもの食うべからず」ではなく「一日なさざれば一日食わず」という、労働の意義を尊んでいた文化が先にあるわけです。これが先にあったがために、「働かざるもの食うべからず」というのは純粋に、労働してない人間には食う資格が無いのだという意味で取ってしまったといえるかもしれません。
 聖書のもともとの意味もこれぐらいシンプルだったのに、それがあるときは共産主義革命のスローガンになり、またあるときは資本家が労働者を働かせる言葉に変わっていってしまったというのが事実なのでしょう。

 現代日本において、3もしくは4の意味で用いる人がどれだけいるでしょうか? 実際は1と2が圧倒的に多いはずです。これをいくら間違ってると責めても、意味が無いと思うのです。
 1と2で用いる人は、極端に言うとお金もないのに働かない奴は死んで構わないと思っています。食う資格が無いということは、死ぬしか無いということですからね。そういう価値観を彼らが披露してることを前提にし、それを批判するためにこちらもこの言葉を用いるわけです。その際にいちいち「この用法は違う」とか「間違ってるのを分かって用います」と言わないといけないものなのでしょうか? 現状では1と2の、気にする人からすれば間違ってる用法で使われるのが一般的になってしまっているのが事実です。

 言葉は変化していきます。古文で習う単語の意味が現代ではまったく違うものになってる例など、いくつもあります。それをわざわざ指摘しても意味が無いのと同じことです。

 このnoteを読んでくださった方は、時代の流れで意味が変わること、本来の意味は3であることを踏まえ、現代においては1や2の意味で用いられているのだという現実を理解していただいた上で、ネットなどでの議論に用いていただきたく思います。


 おまけですが、「働かなくても生きていける人」の増加自体、個人的には歴史の流れだと思います。それは金持ちが増えているという話ではなくて、社会全体が十分に豊かになっていき、産業の機械化や効率化の進展で必要な労働力が少なくなっていってるということを意味します。
 これについては「技術的失業」「ジョブレス・リカバリー」「シンギュラリティ」といったテーマで解説することが可能です。ここでは以前書いた拙文をひとつ、ご紹介します。

少子高齢化問題と技術的失業&シンギュラリティ

 今後この流れは進む一方だと個人的には思っています。「働かざるもの食うべからず」どころか、いくらでも食えるのに働く場が無いなんて話になっていくでしょう。遅かれ早かれ、「働かざるもの食うべからず」自体が死語になる時代が来るのではないでしょうか。

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シンギュラリタリアン。20代から世界あちこち旅行。生活保護や人権、労働のあり方に興味あり。 著書『嫌労働の思想』https://www.amazon.co.jp/dp/B00EU71UZ8/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_Nk--Fb25MR9DT