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「嫌い」との付き合い方

「嫌い」なものが視界に入った時、あなたはどうするだろうか。
感情のままに泣きわめく・目を逸らしてそこから立ち去る・「嫌い」を排除しようとする……どれも間違いでは無いが、意識的に対応を選択できている人は自分を含め少ないように感じる。

ちょっとしたきっかけがあったので、意図せず遭遇する「嫌い」との付き合い方について個人的な考えをまとめてみようと思う。


前提

本稿では主観的な基準によって生じる「嫌い」や「不快」との付き合い方を考える。あくまで「付き合い方」としているように「嫌い」形成の理由を深堀って「嫌い」の根治を目指すようなことはしない。

また、自身の主観とは独立した基準(法律や社会規範)によって生じる「正しさ」や「かくあるべき」といった思想は「嫌い」の形成に大きく影響する場合もあるだろうが、あくまで主観的なものとしての「嫌い」にフォーカスし、深く踏み入らない。

基本スタンス

最初にこれを言ったらおしまいな気もするが、基本的に世の中は「思い通りにならない」と認識しておく必要がある。
世界は言うに及ばず、国や会社・家庭ですら思い通りにするのは難しい。
物理法則は曲げられないし、一般人が法律を変えるのは困難で、給料やお小遣いの値上げも思いのまま……とは行かない。これは

「あらゆるものは変更不可能であるからして嫌いでも受け入れよ」

という話ではない。
基本的に自分が自由に変えられるものは自分の判断・行動だけであり、自分以外の判断・行動の介在量が増えるほど(=国や社会など対象のスケールが大きくなるほど)変化させる難易度とコストが爆増していく。
その為、この事を認識していないと意図せず大怪我をしてしまう。

その「嫌い」に対処する必要はあるのか ?

現代人の悪癖というと大げさだが、ネガティブな事象や問題を基本的に「解決すべき課題」と捉えているように思う。事の大小に限らず「嫌い」を見つけ、それを解消せねば!と強迫観念じみた思いに駆られた経験は誰しもあるのでは無いだろうか。
詳しい内容は追って掘り下げていくが、「嫌い」を条件反射的に解消しようとするのではなく、「本当に対処する必要があるのか」とその要否から考えて行く。

要否の判断

対処の要否をどのように判断するのかを考える。
前提で述べたように、あくまで主観的な「嫌い」「不快」への対処を考える訳だが、基本的には以下を基準とする。

「嫌い」によって身体・金銭的に明確な損害を被るか?

「嫌い」な時点で心理的な損害は大なり小なり発生するので、身体と金銭への影響といった即物的な軸で判断する。
これらの損害が無い・あるいは軽微なものであればそもそも「嫌い」を積極的に解消する必要は無いと言える。
そういった「嫌い」については基本放置で問題無い。

対処の必要がある「嫌い」

逆説的に言えば、その「嫌い」が自身の身体・金銭面に明確な損害を与えてくる……となると対処せざるを得ない。
「嫌い」発生の大定番である「食べ物の好き嫌い」問題を例に考えてみる。

子供時代の好き嫌いから想起される食べ物、というと個人的に「ピーマン」と「トマト」が真っ先に思い浮かぶ。この2つだけがどうしても食べられなかったとして、その「嫌い」を対処する必要は無いだろう。多少食事バランスは崩れるだろうが、他の食品で代替可能なので、身体(健康)や金銭への影響は無視できる。
しかし、この好き嫌いが「肉以外のあらゆる食べ物」だった場合はどうだろうか。自分は栄養関連の資格を持っている訳では無いので、その是非をあまりつっこんでは書かないが、「トマト」「ピーマン」と比較した場合、身体への影響と金銭(肉のみでカロリー維持するコスト)は明確な損害と言えるだろう。

また、無視可能とした「トマト」「ピーマン」に関しても、それが食事の中心であり、避けようが無いとなった場合その限りでは無いだろう。
そのため要否の判断軸としてもう一つ以下を追記しておく。

「嫌い」を無視できない環境にある

「嫌い」への対処

前章では「嫌い」に対して対処の要否を軸に向き合う事、そして要否を

  • 「嫌い」によって身体・金銭的に明確な損害を被る

  • 「嫌い」を無視できない環境にある

の二軸で判断することについてまとめた。
この章では実際に「対処が必要」と判断された「嫌い」とどう向き合うかを考えていく。

環境を変える(移す)

まずは1つ目、身をおいている環境を移す。
格好良く書いてみたものの身も蓋も無い言い方をするならば、スルーする(スルーできる環境に身を移す)という意味になる。

対処の要否についてまとめた際に、対処が不要なものは無視すれば良いと話したが、こちらもある意味無視する形になる。先の「無視」が消極的なものだとすると、こちらは積極的「無視」と言ってもいい。
現状の環境(物理に限らず)では無視できないものを、無視できる状態へと強制的に移す。

「トマト」嫌いが三食「トマト」の国に住んでいる場合、三食が「いも」や「とうもろこし」の国に移住する。

自分を変える(逃げられる・逃げられない)

2つ目、自分を変える。

1つ目の「環境を変える」と優劣の差は無いが、対象の「嫌い」の種類によってはこちらを選ぶ必要がある。具体的には、「無視」の結果「身体・金銭的な損害」が回避できない場合だ。

「肉以外のあらゆる食べ物」が苦手な人間が、それを許容される環境に身を移しても少なくとも身体(健康)面での問題は解消されない。(長い時間をかけ、体が適応する例などあるかもしれないが、個人の尺度では検討するのはリスキー)
このような場合、自分を「肉以外」も食べられるように変える必要がある。

ここで注意が必要なのは、「肉以外のあらゆる食べ物」をすべて「好き」になる必要は無い……というか「好き」になる必要は無いという点だ。
このケースの場合、極端な食生活による健康問題を解消できればいいので、いくつかの選択肢を増やせれば良い。肉しか食べられない状態を「0」・あらゆるものを喜んで食べられる状態を「10」とするなら、「1」や「2」へ変えるだけでも効果を見込める。

また、自分を変えるというと根性論的に「駄目な自分」を変容させる……と想像してしまうが、そうでは無い。
あくまで目的(「嫌い」による損害の回避)の達成が重要なので、もっとカジュアルに目的達成の手段検討を楽しむくらいで良いと思う。
「肉以外を食べられる」状態を目標とするならば、ナチュラルに食べられる状態を目指す以外にもハック的に自身の味覚を騙せる食べ合わせや、誤魔化せる調味料を探求しても良いし、それと分からずに食べられる調理法を磨いても良い。

自分を変える場合、「嫌い」を「好き」に変えるのではなく、「苦手」や「嫌いじゃない」のレベルを目標値にするくらいで良いし、「嫌い」なまま目的達成が可能な手段を探し、それを利用するでも構わない。

環境を変える(周囲を変える)

3つ目、環境を変える(周囲を変える)。

前2つと異なり、「自分以外」を変える。
基本スタンスにも述べたように自分以外の判断・行動の介在量が増えるほど難易度とコストが上がってハードモードになる為、基本的には前2つでの対応をお勧めする。
どうにもならない場合の最後の手段。

周囲を変えるとは言うものの、環境を寸分たがわず思った通りに変えることはできない。また、いきなり大規模に変えることは更に難しい上トラブルのもとになる……という訳で、基本的には妥協も込みで最低限変えたい部分を把握するところから始めるのが良い。

最低限変えたい点とは、判断軸の「身体・金銭的な損害」を回避する上で必須な部分と言い換えられる。ここを把握せずに周りの変容で「嫌い」を解消しようとした場合、心理的な損害の解消(世にいうお気持ち的な部分)込みでの盛りに盛った理想を押し付けかねない。

仮にタバコがとてつもなく嫌いだったとして(実際に健康に害はあるが)、合法的に流通している状況下で「どこでも吸わせない」という環境の変え方には無理がある。
対処の1つ目で述べた「環境を変える(移す)」との間の子的でもあるが、分煙のように自身がスルー可能な環境を限定的に作る(=環境を変える)というのが現実的なラインかなと思う。

世の中の大規模な事例であっても小さい内容から時間をかけて変えていくものが大半なので、個人のスケールで周りを変える場合も即効性は求めずに地道にやるほか無い。
繰り返しになるが、基本的に世の中は「思い通りにならない」事を胸に刻みつつ、自身の損害回避には何が・どこまで必要なのか意識しなければ自縄自縛に陥るので注意が必要。

最後に

「嫌い」との向き合い方について「対処の要否」と「具体的な対処方針」を軸に考えてきたが、あくまでこれらは私自身の考えでしか無いことを改めて述べておく。

日常のちょっとした「嫌い」から本能に深く根ざした「嫌い」まで日々あらゆる「嫌い」に遭遇する可能性があるが、嫌いである(または不快である)という感情そのものを改善することにはそこまで意義が無いと考えている。

瞬間的な心地よさ・快楽の追求が人生全体を必ずしも幸福にしないように、「嫌い」という感情そのものの解消も人生の質全体に占める割合は小さいように感じる。
とは言え、その感情を漫然と受け止め続けることは決して健全とは言え無いので、今回まとめた内容を参考にしつつちょうど良い距離感で「嫌い」と向き合っていただけると幸いだ。

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