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芸術と旅するということ | 10年後のニューヨーク #01

この夏、ふとニューヨークへ行こうと思い立った。

最後に行ったのはもう10年前、まだ学生の頃。
当時学部で仲が良かった友人に誘われるがままに着いていき、それが人生初めてのニューヨーク旅行となった。

その頃の私たちは美術史を専攻する大学生で、当時アルフォンス・ミュシャに惹かれていた私は、連作「スラブ叙事詩」についての論文を書いていた。

ミュシャといえばデザインやポスターが有名だけれど、私はスラブ民族のアイデンティティ喪失と復興の歴史の方に興味があった。

《荒野の女》アルフォンス・ミュシャ

友人の論文は何だっただろうか。彼女が中でもエゴン・シーレが好きだったのは覚えている。

小さい頃から芸術に触れるのが好きで、その時々でいろんな画家を好きになってきたけれど、私はまだシーレを好きになったことはない。

もちろん作品は何度も美術館で見ているし、じっくり観察したこともある。

軽々しく理解できるなんて到底言えないような、奥底からの苦悩を感じる作品たち。混乱と儚さ。このような絵を描くまでに、一体どんな苦難があったんだろう。

いつもシーレを見るたびに、私は繊細で不器用な人柄を想像するのだった。

その人が好きな画家というのは、やっぱりどこかその人らしさを表しているものだと思う。

友人がシーレを好きなのも、私なりには、なんだかわかる気がしていた。特に詳しく書くことはしないけれど、彼女もまた繊細な若者だった。

エゴン・シーレ

そんな2人で行ったニューヨークはやっぱり芸術三昧の旅となった。

MoMAで冗談を言い合いながら名画を見て回ったり(友人は時差ぼけしている私を元気づけようとよく笑わせてくれた)、

グッゲンハイム美術館で学部の先輩にばったり出会ったり(いつも通りジャケットを着た先輩は、この後彼女とグラン・メゾンに行くんだ、と言った。たしか彼は別のゼミでティツィアーノの論文を書いていた。)、

そしてSOHOの小さなホテルに歩き疲れて帰ってきては、クイーンサイズのベッドの右端と左端にそれぞれ小さくなって、お互いちょっと気を遣いながら寝た。

あれから10年、書ききれないほどのいろんな出来事があったけれど、とにかくこうしてまたニューヨークに行く機会が巡ってきたのだ。

10年間、大変なこともたくさんあったし、楽しいこともあった。大変なことの方が多かったかもしれない。

苦労してきた。誰かに言うことはないけれど、心の中ではそう真っ直ぐに思えるほどいろんなことがあった。

そしてそうこうしているうちに、私の絵の好みというのもまただいぶ変わっていたのだった。

人の好みとはこんなに変わるものだろうか。

小さい頃は印象派が好きだった。初めての模写はモネを選んだ。有名な作品ではないが、その時心惹かれたのは木立のある風景だったと思う。好きな色はエメラルドグリーン。

高校生の頃は、一瞬だけサイバーパンクな世界観が好きだったことがあった。

イメージの色合いで作りました、と頂く素敵な花束はいつも淡いピンクやブルーで、まあ自分でもなんとなく納得していたから、そんな自分が一瞬でもネオングリーンを好きだったことは意外だ。

そしてこの一瞬だけシュールレアリスムを好きになり、中でもキリコやマグリットに惹かれた。マグリットは今でも大丈夫なのだけれど、キリコはその後すぐに苦手になった。

(左)ジョルジョ・デ・キリコ
(右)ルネ・マグリット

大学生になると論文でも扱ったアルフォンス・ミュシャをはじめ、19世紀末の画家ばかり好んでいたように思う。よく行っていた箱根のラリック美術館の影響もあるかもしれない。クリムトも好きになったし、なので、もちろんキラキラした金が好きになった。

この頃までに共通しているのは、私は現代アートに関してあまり関心を示さず、関心を示さないというか、ちょっと穿った見方すらしていたということである。

今思えば私の勉強不足も多分にあったのだが、美術史を勉強していて美術というものがわからなくなってしまった時期がある。

作品解説や参考文献を読むと、何かを表現している、社会問題に対するアンチテーゼである、というようなことが書いてあるが、その頃の私はそういった解説にさっぱり納得できなかったのだった。

一次資料なら納得できる。ただ、誰かがアートについて評論しているのを見て、私はその人の感想以上のものとして受け止めることができずにいた。

さらに次から次へと作られる潮流、小難しい解説とともに公開される現代アートに対して、奇を衒えば注目されるとでも思っているのでは、とすら思ったこともある。

見れば見るほどわからなくなった。
たしかに、今の私にとっても簡単に理解できるものばかりではない。

しかしその難解さのうち幾分かは、その後ある種非常にシンプルな体験をもって解決されてしまったのだった。

マーク・ロスコ

今思い出しても衝撃的な出会いだったと思う。
ものすごく静かな衝撃だった。

というのも、出会った場所が物理的に静かな部屋だったというのもあるし、その衝撃はすぐには理解できなかったのに、後になってじわじわとやって来たからだった。

一度だけカメラの暗室に入ったことがある。
入ってすぐは何も見えないけれど、だんだん目が慣れてきて、徐々に物の形がわかるようになる。

ロスコ・ルームも暗室のように薄暗く光源が調節されていた。

全方面に作品が配置されている、薄暗い部屋。はじめは何なのか、よくわからなかった。
しばらくして目が慣れると、大きな四角がじんわり浮かびあがる巨大な絵画たちに囲まれていると分かった。

赤い。どちらかというと、赤黒い。なんとなく、人の体内にありそうな色だと思った。

よくわからないけれどずっと見ていると、ふと絵画と自分との間の境界が揺らぐような感じがした。

あたたかさを感じる。
それから、重低音。

この時の空調が実際にどうだったのか、また何かそれこそ空調の音などがしていたのかは覚えていない。

ただ、のちに何度もロスコ・ルームには足を運んでいるが、特に暖かい部屋というわけではないし、私の感じた低い音も発されていなかった。

そしてそのままあたたかさと心地よい重低音に身を委ねていると、あろうことか、なにか人のようなものと対峙している感覚があった。

人というか、人のような何か。

ただそれは、人間よりも大きくて、無垢な荒さがあり、厚みのあるあたたかいエネルギーのようなものだった。

こんな体験は後にも先にも初めてだったし、今文章にしてみるとさらに不思議に思う。

その日はただ不思議な感覚を持ち帰ったのを覚えている。このように言語化できるようになったのは、それから何度も通ってからだった。

それは紛れもない体験だった。あるいは、共感覚だったのかもしれない。

幼い頃、私には共感覚のようなものがあった。

人によって味覚、聴覚、色彩感覚などさまざまなパターンがあるらしいけれど、私の場合はアルファベットと数字に色と性別が見えていた。ひらがなや漢字には何も見えなかった。

大学のゼミにも、共感覚があるという人が2人いた。

1人は、色で音が聞こえると言った。
ゼミの時間、たしかバンドサークルに所属していたその人が共感覚の話をしているのを聞いて、自分も昔そんな体験があったと思い出しつつも、この人はきっと本物なんだろうな、なんて思ったのを覚えている。

自分の感覚を他人事のように思っていたのは、色が見えていたというよりも強く感じていたという感覚に近く、共感覚のある人というのはたぶん視覚的に見えているのだろうと思っていたからだ。

私が感じていたその感覚は、物を見た時に視覚的に入ってくる色とはすこし違って、文字の上に濃いレイヤーとして重なるように強く感じる色彩感覚だった。

そして大人になってから、それが共感覚というものだと知ることになる。

私の共感覚は成長するにつれて消えてしまった。

 9、紫、中性。
 4、色は覚えていない、女性。

断片的な記憶が残っているものの、並んだ文字を見ても今ではもう何も感じ取ることは出来ない。

もしかして、あの共感覚が形を変えて戻ってきたのだろうか。

それとも、やっぱり全く別の新しい体験だったと認めた方が良いのだろうか。

実は、ロスコ自身が、人間の潜在意識に働きかける神話的な要素を多分に意図して作品を製作していたこと、そして、多くの人が実際に彼の作品を前にしてなんらかの体験をしていること。

それを知ったのは、私自身がロスコと対峙したあの日のずっと後だった。

《Black on maroon》マーク・ロスコ

ニューヨークはロスコが過ごした街でもあり、当然いくつも彼の作品を抱えている。

初めて訪れたとき、スラブ叙事詩の論文と格闘していた私はまだ彼の作品をよく知らなかった。

あれから10年、いろいろなことがあったけれど、ロスコと出会ったことも大きな出来事のひとつだったと思う。

なんやかんやあって海外に住むことになったり、毛嫌いしていたはずの現代アートに魅入られてしまったり。

あの時からは想像できない未来にいるけれど、時々芸術に浸かりたくなる性分は幼少期から変わらない。

そんなわけで、ひさしぶりに芸術に没頭したい(そして美味しい中華も食べたい)と思い、あれから10年後のニューヨークに行ってみよう、と思い立ったのだった。

さっそくニューヨークの旅行記を書きはじめるつもりだったのに、とても長い導入になってしまった。

図らずも私と芸術の関わりを振り返るエッセイとなったけれど、これはこれで、これから書く旅行記のプロローグということにしよう。

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