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ぼくが他人の嫌がることをする理由

「自分がされたら嫌なことは他人にもしない」って、言われたことがある。
一定の妥当性があるものの、自分を基準にしていることに不安がある。
「酢豚にパイナップル、入れるか?入れないか?」とか、「唐揚げにレモン、しぼるか?しぼらないか?」みたいな。
『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』みたいなときに困ったことになる。
前提となってる常識を共有していないともめる。特にレモン。

 一方で、「自分がされたら嬉しいことを他人にもする」、いわゆる恩送りのほうも難しい。
ぼくは食物アレルギーがあるので、みんなが喜ぶご馳走でも喜べないというか食べられないときがある。井上咲楽に虫を勧められても食べられるのか、みたいなことだね。
気持ちとしては「ちょっとぐらいの汚れ物ならば残さず全部食べてやる」構えではありますが。

 過剰汎化というか、家族とか仕事とか、個別具体例ごとに一般化できないものってたくさんあって。
トイレとかお風呂とかベッドの上のこととか基本ブラックボックス。
「お尻を何回拭くのが普通」みたいな常識はないってわかっているのに、他の分野では自分のことを基準に一般化してしまうのは何故だろう。
ディスカッションして比較したら「もしかして、私の拭く回数、少なすぎ?」なんてこともあるかもね。

 そんなに正確に自分の言いたいことを言えている人ばかりではないから、「言った言わない」でもめるのは小学生までにしたい。
 自分がされて嬉しいことをして恩送りするより、「他人の嫌がることをする」ほうがいいよ。トイレ掃除とか。
みんなが嫌がって敬遠することを率先して引き受けることで恩送りする方がハズレを引くことは少ないと思う。
 もう自分一人の人生では収支が合わないから、身の回りの人のハッピーを増やすことで、生まれてきて良かったんだって思えたらいいな。

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