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いずれはみんな障害者

 介護とか障害者福祉の仕事をしていた。
 若い頃はえらい人だったとか戦時中のことを話してくれる人とか、いろんなお年寄りと関わり勉強になる一方。
いつかは自分も自力では歩けなくなって、トイレにも行けなくなるのかなと思った。
はたして自分は何歳まで1人でトイレに行けるだろう。
自分の子どもか孫みたいな年齢の介護士にオムツを替えてもらうことになるのだろうか。

 それは必ずしも老化が原因ではない。
 もし明日事故に遭って、半身が動かなくなったら。首から下を動かせなくなったら。すぐにでも我々は身体障害者に分類されるようになる。
今自力でトイレに行けるということでさえ、偶発的と言うか、自分の努力だけでは叶わないものだ。
生まれること自体がギャンブルのようなもので、配られる手札には偏りがある。
けれど超高齢社会だから、いずれはみんな自力でトイレに行けないようなADLの障害者になるのだろう。
 だったらハンデがあってもそれを障害とせずに暮らしていけるほうがいい。
特別支援というと「障害者を特別扱いする」ことだと思われがちだが、障害者にとって暮らしやすいは健常者にとっても便利だ。
正攻法で、敷かれたレール通りに攻略できない難題を、その人の持ってる手札で攻略するための合理的な配慮を考える。
 アートとかテクノロジーはそのためのヒントをくれるんじゃないかと期待している。
 相手によって対応を変えることを咎める人もいるが、「みんなちがってみんないい」ならば、その違いを活かすためにも1人1人違った特別な支援を考えたほうが道理だ。

 それがわかっていても、現場はだましだまし働いている。
 みんな俺より頭いいならわかるんじゃないのか。もしくはみんな俺より頭悪いならせめて勉強してくれよと嘆きたくもなる。
 そもそもリソースが足りていない。「無理せず」と言ってくれるやさしい人はいるけれど、無理しないで働ける人なんているのだろうか。
 細く長く働き続けるためにも、このあとめちゃくちゃ合理的配慮した。

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