見出し画像

「楽しさ」のために学問をしていた人=南方熊楠から学ぶこと

書評を書いていたので痛いほど分かるのだけど、書評子にとって最も嬉しいことは、その文章を読んでももらって実際にその本を手にとっていただくことです。

これがなかなか難しいのですが、読み手に回って書評を手に取ると、2024年5月12日(日)付『四国新聞』に掲載された松居竜五さんの『熊楠さん、世界を歩く。』(岩波書店)は、その好事例で、さっそく、同書を注文してしまった次第です。

明治から戦前昭和にかけて活躍した博物学者(というのが正確であるのかどうかについてはいったん横に置きますが)が南方熊楠そのひとで、僕自身もリスペクトする先哲のひとりです。

筆は生態学者の鶯谷いづみさん。

「民俗学の論陣を張り、一方で地衣類を含む菌類の新種などの採取で生物分類学に貢献した。神社合祀に反対して勾留までされた自然保護活動家の顔を持つ」南方熊楠を「博物学者」などと一言で形容してしまうことを僕が躊躇するわけですが、その骨子をあますところなく描写しております。

著者の松居先生の熊楠論に1990年に出会い、そこから著作集を買い求め、『和漢三才図会』まで買い求め、熊楠にならい、途中まで筆写したのは懐かしい思い出ですが、松居先生は、熊楠を次のように描写してしまうのだから脱帽です。

すなわち

「宇宙のすべてを対象としながら『楽しさ』のために学問をしていた人」と明快な熊楠像を提示し、生涯その時々に熊楠が「知ることの楽しさ」をどう享受したかを描き出す=鶯谷・評


さて大切なところはここからです。

熊楠は、


学位の取得を目指すことも、専門分野に閉じこもることもなく、知ること自体の価値を重んじ、古今東西の書やおびただしい数の実物にふれることで、「生きものに満ちた宇宙の知」をわがものにした=鶯谷・評


熊楠を熊楠たらしめる萃点(すいてん)とはここに存在するのでなかろうかと思うのは、おそらく僕一人ではないと思います。

知の巨人として偉いのは、知っていることで偉いのではなく「知ること自体の価値を重んじ」「「宇宙のすべてを対象としながら『楽しさ』のために学問をしていた」全体人間にあるのではないかと思います。

そして熊楠の態度というものは、学問の世界に限定された問題ではありません。画一的な教育から主体的な学びの転換などと喧伝されてから久しくなりますが、それでも教育現場の教育に馴染めない児童・生徒の数が減る気配は一向にありません。

こどもさんの学習支援に関わるなかで、見出されるのは、それはそもそも「知ること自体」の価値や楽しみという原点を喪失したまま事業が遂行されてしまうことにあるんじゃね? なんて考えてしまいます。

だから、熊楠がそうであったように、何からでも学んでいくことの楽しさから入るべきなんじゃないのかなあと取り組んでいます。

ともあれ松居先生の『熊楠さん、世界を歩く。』は必読ですね。


『四国新聞』2024年5月12日(日)付。


この記事が参加している募集

探究学習がすき

氏家法雄/独立研究者(組織神学/宗教学)。最近、地域再生の仕事にデビューしました。