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後回し癖のある私の正体

noteを始めたいともうずいぶん長く思っていたのに、今の今まで実行に移せなかった。

私は数年前から、いつかきちんと文章に起こしたい話のタネを思いつく度スマホのメモに書き溜めている。
にも関わらず、怠惰な保護者にネグレクトされたエッセイの赤ちゃんたちは、いまだに窮屈な画面の中で年をとるばかり。とんだ毒親である。

このままではいけない。いい加減この子達を救出しなければとパソコンに向かった。

さて、いざこうして書きだしてみると、誰に命じられたわけでもない自発的に”やりたいこと”であったはずの作業を、なぜこれまで後回しにしてきたのか、その訳が痛々しいほどに分かってきた。

端的に言ってしまえば、私はこわかったのだ。
時間と熱意を費やし書き上げたものが、期待していたよりずっとちっぽけに出来上がることが。
私は、文章を書くのが好きだからこそ、文章を書けない自分に出くわしたくなかった。

スクリーンの中に乱雑に陳列された話のタネたちは、土に植えさえすればいくらでも大きく青く育つ気がする。
しかしいざ芽が出てしまえば、ひどく頼りない葉をつけるかもしれないし、途中で枯れてしまうかもしれない。

だから、このまま空想の世界に安住することを選び続けてしまう。ここを出ない限り、派手に失敗することもなければ、才能のない自分にほとほと愛想が尽きることもない。
現実逃避だと言ってしまえばそれまでだけど、抜け出すのには中々に勇気がいる。

自分には何もないと痛いほど分かっているからこそ、自分なんかしがない凡人ですからと白旗を上げたフリをしながら、心の奥底で自分は何者かであると信じていたい。
そんな理想とは裏腹に、願うよりずっと未熟な自分に直面し失望するのがこわくて、“やればできる”という逃げ道を常に確保しながら生きていたい臆病者。

これが、驚くほど情けない“怠惰な自分”の正体だった。

このままでは、未来の自分に望みを託し続ける妄想婆さんとして目を輝かせたまま死んでゆくことになる。

もちろんそれを良しとしている訳ではない。
ただビビっているだけである。

さらに白状すると、私がこうやって空想ばかりを繰り広げて着手を後回しにしていることは、文章を書くこと以外にも山ほどある。

韓国語を話してみたいし、海外の友達が欲しい。
デザインの勉強にも興味があるし、自分のECショップを開設したいという夢もある。

こうやって重い腰を上げて文章を書き始めたのは、明確なきっかけがあった訳でも、臆病を克服し自分の身の程を受け入れられた訳でもない。

これは、私による私のためのリハビリである。

「見てみろ、お前が大切に温めておいた考えはこんなもんだ!」と自分自身に知らしめるための暴露療法。

いつかこの臆病症が治ることを願ってこのエッセイを終えよう。

ちなみにこのエッセイだって、本当はもっと上手に、もっといい感じに書けるはずだった。

でも、まあ、いいか。

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