何者にもなれない私たちへ

 この前明け方の若者たちを観て、次は朝井リョウさん原作の何者を観た。私たちは何者か。何者にもなれていない私。実は何者かになれる人なんていないんじゃないかと思う。

 あなたは何者ですか?という問いにどう答えますか。という内容で授業をした。

 所属、性格、名前。挙げてみるときりがないくらい。それぞれに答えがあって、議論は進んだ。時々でいいからこういう答えの無い問いに向き合うことは大事だと思う。
 考えると僕らにはさまざまな属性があって、それを身にまとって生きている。それはラベルと言ってもいいと思う。身体中に貼られたラベルは時に増えたり減ったり、剥がしたり貼り替えられたりする。その時と場合によって色々なラベルを使い分けて、それを演じたりしてる。

 じゃあそのラベルを全部剥がしたら何が残る?答えがない質問だと伝えた上で聞いてみた。ある人は言った。「名前が残る」。じゃあ名前=あなたなの?そう言われると違うような気がする。名は体を表すと言われる。僕の名前は漢字で書くと○○○○の四文字で、ひらがなで書くと×××××××の七文字になる。でもそれが無くなったらどうなるか。もちろん、現実的にありえないことなのは分かっている。僕はこのまま○○○○(×××××××)であり続けるだろうし、それは他者によって認識される。

 そこに確かに肉体も精神も存在する。でもそれ自体を表すものなんてないのかもしれない。でも、存在を探し続ける存在が人間なのかもしれない。確固たる自分がないのを分かった上で、何者かになろうとして悦び、悲しむ。だから楽しいのかもしれないね。

 


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