INTJとスピリチュアルと解釈の話

私は長年ずっと疑問だったことがある。
私はなぜスピリチュアルを毛嫌いするのか、である。スピリチュアルだけでなくオカルト全般信じていないし、嫌いだ。
こういう人間の書いた記事なのでスピが好きな人や信じている人は読まない方がいいかもしれない。

スピ以外のオカルトは飲み会の話題くらいなら笑って聞ける。楽しくはないが。
だが、スピは別だった。龍を下ろすだとか子宮系もそうだが、パワーストーンやチャクラもオーラも鼻で笑う人間だ。子どもの頃からそうだった。

だが、なぜ嫌いなのかはわからなかった。
信憑性がない、こじつけがすぎる、とスピの悪いところに着目していた。
科学的じゃないからだと言っても、私はそもそも科学を完全にどころか平均レベルにも理解していない。文系人間だ。信憑性がないと言っても、科学の信憑性を人に理解できるように話せるわけでもない。人に説明できないから、科学をこじつけだと言われても、私は具体的には反論できない。

でもスピが嫌いだ。スピを見下している。それは何故なのか。ずっとわからなかった。
でもようやくわかった。昨日事実と意見を区別することについての記事を書いた。その記事を書くために考え事をしていて閃いた。
その記事では触れなかったが、事実と解釈の区別をつけないとはどういうことだろう、と考えていた時、客観的事実を必要としない人がいることにようやく気づいた。

そして、繋がった。
スピの世界は客観的事実を必要としない解釈の世界だ。だから信憑性も科学的根拠も全くない。解釈だけの世界だから、好き放題こじつけられる。
科学の世界のことも何も知らないが、客観的事実にこだわる学問なのは間違いないだろう。一応書いておくが、当然、スピに客観的事実がないことくらいわかっていた。

私が気づいたのはそこではない。
私は、人は事実と解釈の区別をつけるのは当たり前だと思い込んでいた。区別を簡単につけられるわけではないが、区別する努力くらいはみんな当たり前にしているはずだと思い込んでいたのだ。
だから、スピが「客観的事実を必要としない解釈だけの世界」と言うことに気づけなかった。
考えればすぐに信憑性がないことくらいわかるはずなのに、本気で信じる人のことが理解できなかった。客観的事実は初めから重要ではなかったのだ。

占いも陰謀論もスピも自然派も反ワクも基本は同じだろう。必要なのは客観的事実ではなく、解釈なのだ。自分が納得できる好きな解釈を選んでいただけなのだ。
創作の世界では、客観的事実は重要ではない。だからこそ、解釈は自由だ。そこが魅力だ。SFの世界で人が空を飛ぶのはおかしいと指摘するのはあまりにも不粋だ。
それをスピ系の人は現実世界でやっていたわけだ。もちろん私はスピを嫌いな理由がわかったからとて、スピを理解するつもりなど毛頭ない。これからも当然嫌う。

以前、オウム真理教の幹部には高学歴が多いのに何故カルトにハマったのかという理由を「高学歴の特に理系は科学的に証明できないことに直面し、スピの世界に魅力を感じる」と解説している記事を見た。
低学歴文系の私は、高学歴理系の人には私以上に科学で説明できない世界が途方もなく大きく自分に迫ってくるように感じ、絶望してしまうのだろうかと解釈した。それももちろん理由の一つとしてはあるだろう。
だが結局、客観的事実から逃げて解釈の世界に逃げただけなのだろう。証明する必要のない世界の住み心地はいかがなものだろう。もちろん、逃げること自体を非難するつもりはない。要はどこに逃げるかだ。

もし私とスピ系の人が同じ体験をしても、それぞれ全く違う説明をするだろう。
例えば、霊のようなものを見たとき、私はスピ以外の理屈で語る。スピ系の人はスピの理屈で語る。同じ体験をしても住んでいる世界が違えば見る世界が違う、という類の話だ。

私にとってはスピの理屈は一生必要ない。


保険のために一応書いておく。
単純なスピ好きの人を否定するつもりはない。誰だって解釈だけの世界は持っていると思う。私の場合は物語の世界に求めただけだ。優劣をつけられるものでもない。
ただ、私は嫌いだ、という主観的な好みの話だ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?