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「目的のない言葉」を手放さないということ ── 歌人・伊藤 紺

「五・七・五・七・七」という三十一字に乗せた日常の瞬間や微細な感情が共感を呼ぶ、歌人・伊藤紺さんの短歌。しかし、伊藤さん自身は、誰かに共感を求めたり、誰かの気持ちを代弁することへの意識はないと潔く言い切ります。大切なことは、その歌に「背骨」があるか否か。その独特な言い回しの奥に隠されているのは、マイナーなものがメジャーに出ていくうえでの矜持なのかもしれません。短歌の可能性の拡張を試みる伊藤紺さんの創作の裏側とは ── 。(デジタルZINE「ちいさなまちのつくりかた」)

Text by Takram
Editing by Takram & NTT UD
Photography by Noriko Matsumoto

伊藤紺|Kon Ito
歌人。1993年生まれ。2019年『肌に流れる透明な気持ち』、20年『満ちる腕』を私家版で刊行する。22年に両作を短歌研究社より商業出版として同時刊行。23年はNEWoMan新宿での特別コラボ展示「気づく」、24年1月は上白石萌歌の初写真展「かぜとわたしはうつろう」への短歌提供、ルミネ荻窪とのコラボ展示など、活躍の場を広げ続けている。

歌人・伊藤紺さんが短歌を書き始めたのは、大学4年生の元日でした。きっかけは、俵万智さんの『サラダ記念日』。突発的に手にした本に影響されて始めた“趣味”は、大学卒業や就職、フリーランスになっても続き、いつしか歌人として生きることになりました。

「しゃべるのは下手なんです。思っている強い気持ちを乗せるのに、なんだか短歌の枠(スタイル)がすごくハマって、ずっと書いていられました。散文だと自由なので、ゴールがないじゃないですか。でも、短歌は『五・七・五・七・七』に強制的に収めなくていけないので、何回も何回も言葉を言い換える必要があるんです」

その三十一字に何時間でも、何日でも費やしてもいいのも、短歌にハマった理由だと言います。

〈伊藤紺さんの気になるメモ①〉民家に、みかんなどの柑橘、柿など、食べられそうな実がなっている木があると、ふっと目をもっていかれます。きれいなお花もそうですが、食べ物が現在進行形で育っているのを見ると、おお、とうれしくなります。

「『うれしい』と『よろこび』って近い言葉ですよね。でも、『=』では結べない。そういうことに、短歌を書いていると気づくんです。言葉を言い換えながら『五・七・五・七・七』にしていくなかで、言い換えられない言葉だったり、逆に適当に選んだ言葉が見えてくるんです。短歌にする過程で、気持ちが磨かれていく感じとでも言うんですかね。自分の本当の気持ちにたどり着けるようになるのが、おもしろいんです」

歌たらしめる「背骨」の在処

歌に選ばれる題材は日々のさまざまな場面で見つかると言います。〈1日2回洗顔をするのが癖になってる〉というような日常の気づきをメモに残し、それを見返しながら歌をつくることも多いそうです。決まりごとは、一つ。その時々の自分の気持ちに寄り添うけれど、教訓めいたことや目的や方向性のある言葉は歌にはしないこと。

日常の瞬間や微細な感情の動きを書いた歌で多くの人の共感を呼ぶけれど、伊藤さん自身は誰かに共感を求めたり、誰かの気持ちを代弁しようとしたりしているわけではないと言います。

「多分、まったく届かないものは省いているというのは、あるはずです。ただ、それは人に受け入れられないから外そうということではなく、本当に自分ひとりだけが思っていることであれば、書く必要がないからです。思ってはいるんだけど、書きたいことと、書く必要がなかったり、別に書かなくてもいいことがあって、それをどこかで分けています。ただ、そのときに共感されるかどうかは意識していないです」と常に自身の強い気持ちと向き合い、うそのない言葉を選ぶ作業を繰り返しています。

伊藤さんが歌を書くときにいちばん大切にしているものは「背骨」。言葉遊びでもなく、リズムでもなく、歌としての背骨があるかないかが重要だと話します。

「このところ鏡に出会うたびそっと髪の長さに満足してる」

『気がする朝』

「自分の髪の毛が短いのがすごく嫌で、もっと伸ばしたいと思って生活していて、やっと満足できる長さになったときの心の満足度。そういう、ハッと気づく瞬間があるんです。『あー、髪伸びて、めっちゃうれしいわ』って、人と話してるときに言うけれど、それよりもっともっと奥にあるよろこびとか、悲しみとか、言葉にならない気持ちとしてあふれる感情に気づくときがあります」

「髪が伸びて、うれしい」。日記であれば、それだけの感情のこと。しかし、伊藤さんにとっては、歌になるだけの「背骨」があると言います。

「髪が伸びたとき、最初に思い浮かんだのは藤原道長の『この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば』って有名な歌でした。あれぐらい満足したんです、自分の髪の長さに。日常会話で話したら『えっ?』って聞き返されてしまうようなことですよね。『なんで?』って。でも、普通の言葉には収まらない感情やイメージのなかにこそ、まだ共有されていない『真実』があって。それが歌の“背骨”になるんです。背骨がある歌は生きてるから、私が声に出したり、解説を書かなくても、ちゃんと自立してくれる。背骨がないと、「あるある」みたいな、ただの情報になってしまうと思います」

無目的的言葉と目的的言葉

こうした個人的な感情の機微を書く伊藤さんの創作活動は、近年はファッションビルなどの商業施設とのコラボレーションへと広がりを見せています。館内の柱やエレベーター、エスカレーターなどに掲示され、館内を訪れる人が自ずと短歌に触れる仕掛けになっています。そのような仕事のときにも、伊藤さんは「短歌」であることの意味を考えると言います。

「公共の場で出会う言葉は、本で出会う言葉とは絶対に違いますよね。きっとすごく目立つところに大きな文字で、多くの人が一瞬だけ見るものとして置かれるんだろうなって、想像しながら書きます。だからといって、めちゃくちゃ分かりやすいものにしたら意味がありません。目的のある言葉は、コピーライターが書いたほうがいいので。短歌のスタイルを貫くようにしています」とその姿勢について話します。

〈伊藤紺さんの気になるメモ②〉駅の鏡が好きで、ああいう、なんでもないところで突然、自分の姿を見られるタイミングをとてもうれしく思っています。ナルシストなわけではなくただ生きている、駅の中を歩いている、自然に近い自分のことを見られるタイミングはあまりないので、出会えるとうれしいですし、見かけたらほぼ必ず見ます。

企業の担当者で歌人と仕事をしたことのある人はほぼいないからか、具体的な商品について書いてほしいという広告コピーの役割を求めるような依頼をされることも少なくありません。そんなときも、短歌の在りかたを説くところから丁寧に議論を交わし、短歌が目的的な言葉でないことを伝え、理解してもらっているとのこと。そして、より大きな概念で関われるように交渉したそうです。

「なにか具体的なアイテムやシチュエーション、気分とかまで狭められてしまうと、かなり難しい。というか、すでにそこに書いてあるから、書くことがないですよね。だから、『自由度が高ければ高いほど、クオリティを上げられます。季節ものをつくるのであれば、季節縛りだけで任せてください』という感じで伝えます。短歌ってやっぱり歌だと思うし、たとえば「春」ぐらいの広さがないと泳げないというか。踊りとか歌とかって、決まりきっていたら動けないじゃないですか。だから、広さについては最初にすごく確認しています」

ただ、決して独りよがりの短歌を書くわけではありません。歌人としてのこだわりがある反面、そこに書かれる内容についてはきちんと意図を汲み取り、書籍とは違う考え方をしています。

〈伊藤紺さんの気になるメモ③〉ひさしぶりに東京での一人暮らしが始まった日、しばらくバタバタしていてさみしさを感じる余裕はなかったのですが、やっと一人になって道を歩いていたら猛烈にさみしくなってきて。ふと前を見たら自販機がめちゃくちゃ薄くて。自分の心細さと都会の自販機の薄さがリンクして涙が出そうになりました。

「そこに“あるべき”言葉、“あってほしい”言葉を考えます。たとえば、本のなかならば暗いことや、つらいことを書いてもいいと思いますが、公共の場は人が無意識に目に入れながら通り過ぎる場所。短歌って街のなかにあると意外と長いから、しっかり読む人の割合は少ないと思います。でも、目には入るからには、みんな、きっとなにかしら影響を受ける。だからこそ、希望とまではいかなくても、ネガティブな方向には行きすぎないように、誠実な言葉であるようにと思って書いています」

ぎゅっと握りしめて、手放さない

このような広告的なコラボレーションの場合、複数案を提出して選んでもらうのが通例ですが、伊藤さんが提出するのは一首のみ。しかし、しっかりと「創作意図」を添えて担当者に送るそうです。そうすることで、その歌である必然性が伝わると言います。それは、担当者が上司や代理店に説明する際に使用するための資料にもなります。

バレンタインシーズンに開催された、ルミネ荻窪とのコラボ展示。

「担当の方に短歌だけを渡しても、上司や周りの人に良し悪しは説明できないので、自分が立ち位置を変えて、この短歌がどうしてできたのかの解説を書くようにしています。そうすることで、格段に通りやすくなりました。最初に提案したものが、自分が絶対にいいものだと思っているので、説明しなくてはいけない。自分にとってもいいことなので」

短歌のような文芸が商業の場と組み合わさるとき、ともすれば広告的になってしまったり、消費されるものになってしまったりするかもしれません。しかし、伊藤さんは「手放さない」という表現で、商業的なシーンでも個人的な表現を諦めないこと、ひいては短歌がよりメジャーになることについて話します。

「もし今後、短歌の大ブームが来たとしても、歌人がそれぞれの大事な部分をぎゅっと握りしめたまま手放さないでいれば、商業主義の波にさらわれずにいられると思います。そこを手放してしまうと後戻りできなくなってしまう。だから、握りしめたままどんどんあたらしい世界に入っていけたらいいし、もしその手を開かなくてはならないほど追い詰められたら、そこはもう撤退すべきところなのかもしれない。もしかしたら歌壇の人たちからすると、私も手放しているように見えているのかもしれませんが、歌のためになにができるか、案件の歌が歌のためにもなっているかを常々考えています。本当に難しいですが。価格についても業界のなかでお金がないのは仕方がないけれど、業界の外と仕事をするときはしっかりと交渉をするべきだと考えています」

バレンタインシーズンに開催された、ルミネ荻窪とのコラボ展示。

その真意は、短歌の裾野が広がれば、「おもしろくなる、おもしろいことができるというのは、間違いなくある」と伊藤さんは言います。

「短歌界の経済も、本当はもう少しうまくいくといいなと思っています。お金のある業界では決してないので。でも、本屋さんでもブースがちゃんと大きく設けられたりして、変わってきているんです。それがいいことなのかどうかはわかりませんが、短歌がもしYouTubeぐらいのプラットフォームになったら、いろんな人が参入してきますよね。母数が広がれば、きっと短歌をもっと違うふうに使う人が出てくると思うんです。もちろん、玉石混交にはなるでしょうけど。でも、そのなかで、ものすごくあたらしくておもしろいものも出てくるかもしれないですよね」

短歌に限らず、往々にして他者からの「共感」を意識しすぎるがあまり、誰のため、なんのための創作なのかという、本質的な目的を見失ってしまうことはよくある話。どこまで行っても辿り着くことのない“誰か”の評価を推し量ろうとするよりも、まずは自らの奥底にある価値と向き合い、引き出すこと。それこそが、もっともクリエイティブな営みなのかもしれません。

〈伊藤紺さんの気になるメモ④〉「街路樹の枝すこし触れ合っていてわたしの中で生まれる気持ち」(『気がする朝』)。街路樹の枝と枝がぶつかりそうになっているのが、お互いに手を伸ばしているようで、ぐっときて書きました。ただ整然と木が植えられていたはずなのに、大きく伸びて、上でつながろうとしているところがいいなと......。


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主催&ディレクション
NTT都市開発株式会社

井上 学、吉川圭司(デザイン戦略室)
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企画&ディレクション&グラフィックデザイン
渡邉康太郎、村越 淳、江夏輝重、矢野太章(Takram)

コントリビューション
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