「ただの気の迷い」ではない:『やがて君になる』、百合でありがちなお約束への抵抗

「ただの気の迷い」ではない:『やがて君になる』、百合でありがちなお約束への抵抗

(訳者注:2020年10月、タイトルのみ修正・更新しました。)
本記事は、Alex Hendersonさんの書かれたこちらの記事を翻訳したものです(許可を得ています)。

恋愛ってどうやってするものなのかと悩む10代 ― 特に、その子が異性愛者ではなかったら ー そんな悩みは、その子を困惑させ、ひどく心を乱されることもある。そんな様を去年放送された『やがて君になる』のように描いた作品は数少ない。この百合シリーズは自己探求、恋愛関係、アイデンティティについての浮き沈みを描いているが、他にも成長物語に織り込まれたジャンルとして恋愛について、間テクスト的(metatexutual、訳注:他百合作品と比較した際の違いにおける意味合い)な解説も多く含んでいる。

小説であれ、漫画であれ、ラブソングや映画であれ、メディアというのは、私たちにとっての愛とその形がどうあるべきか、その概念の多くを普及させるありがちな特定の「お約束」(tropes、トロープ)を提示する。『やがて君になる』は、それらのありがちな描写や、それらが及ぼす可能性のある有害な影響(特に若者に対して)について疑問を投げかける。このため、フィクションにおける重要なクィア表象(representation)のみならず、作中のフィクションにおける表象について語るきっかけを作っている。

このナラティブ(そしてこのテーマ別の暗示)の多くはメインカップルである侑(ゆう)と燈子にフォーカスしていて、それについて語れることはたくさんあるが、今回は沙弥香について掘り下げたい。沙弥香は燈子の親友であり、生徒会の運営となると燈子に忠実で、その右腕として登場するが、すぐにその気品ある風貌とは裏腹に悩みを抱えていることが明かされる。たとえば、沙弥香はひそかに燈子に恋をしている。でもその気持ちを親友に明かすつもりはない。なぜなら2人の関係を変えたくない(つもり)だからだ。

この同性への片思い、アニメではお約束な展開である。おそらく最も有名な例としては『カードキャプターさくら』で主人公の親友がその想いが通じることはないと受け止めつつ、愛する人の側で守ることを気高く誓うことだろう。または、反対に『ラーメン大好き小泉さん』のようなコメディタッチのアニメでは、一方通行のクィアの片想いが面白おかしく、結局のところ気持ち悪いこととして扱われる。

沙弥香はまちがいなく後者には当てはまらないが、『やがて君になる』では彼女の気持ちやセクシャリティについてより深く掘り下げることで、ただの忠実な、執着する親友としての描写にも留まっていない。中盤、数話に及ぶ沙弥香回では過去が明かされ、スポットライトがあたる。その過程で、「執着する親友」の描写は最終的にこのアニメが掘り下げ、批判することになる百合にありがちなお約束の1つにすぎない。

『やがて君になる』7話冒頭、沙弥香の回想シーンでは、私立の女子校に通っていた中学時代が見られる。この回想で、沙弥香は年上の生徒(「先輩」としてのみ言及される)に駆け寄っていき、その先輩に告白され付き合ってほしいと言われる。

沙弥香の胸中について、当時を振り返るナレーションは:はじめはおかしいと思った、女同士なんて。でも。すぐに先輩との関係が幸せに思えた、というものだ。沙弥香と先輩のモンタージュでは、2人が笑ったり、お昼を一緒に食べたり、かなり親密な愛情表現としてお互いのネクタイをやさしく直してあげたりしている。

しかしこの関係は続かない。先輩が高校に進学すると会う頻度が減り、会えない日数は数週間になっていったと明かす。2人がついに再会すると、沙弥香は初めての別れを経験する。

先輩いわく、2人とも「もう子供じゃない」し「遊びでこういう付き合いはよくない」。先輩は2人の関係は「ただの気の迷いだった」とし、失恋して傷心まっしぐらの沙弥香に断言する。「女の子同士で付き合うなんて、ね?」

そこで2人の関係は終わりを告げ、沙弥香は新たに知った気持ちを抑えこむ。その後、女子校の環境から抜け出し、共学の高校に転校するという行動に出るまでに(そうすることで、おそらく失恋相手から距離を置きたかった)。沙弥香のもう恋なんてしないという決意は、それでも、燈子に出会ったことで打ち砕かれるわけだが。その後はご存知の通りだ。

このエピソードを通して、それでも沙弥香は燈子への気持ちは秘めておきたいと言っている。その理由は燈子との友情を壊したくないからだが、まだ抑えこんでいる感じがあるのはかなり明白だ。全体として、沙弥香はかなりアンハッピーで、孤立した不快感を抱えている・・けれども、その心境も似た境遇の人たちに出会うことで変わり始める。

沙弥香の悲しい回想の後、メインキャラたち、そして視聴者は、都(みやこ)に出会う。喫茶店を経営する女性だ。燈子と沙弥香、いつもの仲間たちはその喫茶店によく知る教師である理子が来て、親しげに都に挨拶したことに驚く。都が理子におかえりと言った瞬間、沙弥香はその意味に勘付いた。(訳注:気付いたところはその後のコーヒーを飲む場面ですね)

後日、好奇心と勢いに任せた沙弥香は喫茶店を再訪する。そこで都と2人になり、理子との関係についてためらいがちに尋ねる。都はサラッと「そうだよ、彼女」と答える。

率直に彼女と答えられたことに沙弥香は驚く。理由あっての質問だと考えた都は、沙弥香に好きな女の子がいるのかと聞く。最初はためらいながらも燈子とのことを話し出す。視聴者は彼女がそのことを誰かと話すこと自体、この時が初めてだと読み取れるし、その気持ちを理解し、決め付けずに聞いてくれる人がいることに安堵する。

この都と沙弥香のシーンでこの回は終わる。冒頭から考えるとかなりの変化である。中学時代の回想はすべて冷たいトーンで傷心模様だが、喫茶店では暖かいソフトタッチで歓迎ムードを映している。沙弥香にとってのカタルシスが美しいシーンであり、多くの視聴者にとってもそうだったはずだ。さらにいうと、沙弥香は改めて過去と決別する最高なシーンのために必要な自信も取り戻した。

8話では沙弥香があの先輩、あの元カノに駅で遭遇するシーンから始まる。先輩は当時の感化されやすい時期に変な考えを植えつけたことを詫びる。普通の女の子に戻ってくれててよかった!

明らかにイラッとしている沙弥香はその怒りを抑え、冷静にお礼を言い、燈子へ腕を組みに駆け寄る。それもかなりオープンでラブラブな感じで。沙弥香は愉快なほどさりげない笑みと自信を湛えた笑顔で、元カノに「さようなら」と最後の別れを宣言する。ハッとする元カノに対して彼女は自身のセクシャリティに違和感は(まぁ、すくなくとも以前よりは)なく、燈子と仲良く堂々とその場を去る。

この一連の沙弥香のストーリー・アーク(キャラ展開)はクィアのセクシャリティやロマンスにまつわる多くのお約束的描写や概念を考えさせ、そして批評している。第一に、また最も胸が痛むのは、先輩の別れ話の核心部分だろう:「一時的な気の迷いだったのよ。」

これは若者のアイデンティティを掘り下げることを退ける際によく使われるイデオロギーだ。そのアイデンティティとはジェンダー、セクシャリティ、またはその両方。この点においてアイデンティティは流動的(フルイド)であるし、人の生涯において自他共に多くを学ぶうちに自身のアイデンティティは変わることはありえるのも事実だが、「そのうち卒業する」はいまだに異性愛を基準にした(ヘテロノーマティブな)観念に基づくワンパターンなリアクションだ。

この元カノは2人の恋愛がまるでごっこ遊びだったかのように話す。まるで、”ちゃんとした大人”になるんだから子供っぽい習慣はやめるべきだと。いわゆる「補助輪の関係(training wheel relationship)*1」の考え方にあたる ― 若い女の子は感情的で親密な友情を育むものと想定されるが、ある年齢に近づくにつれて同性との関係から卒業し、その親密な感情は異性との恋愛関係に移っていくのが自然で適切とみなされている。*1(訳注:説明の通りですが、定訳がわからず。別の言い方があるかも)

これらの考え方は「エス」(Class S、参照:wikipedia『フリップフラッパーズ』のエス批評*2)などのメディアにおいてお約束の展開として体系化されてしまっていた。エスとは現代の百合の祖先として多くに認識されている、歴史的にみた漫画や小説のジャンル。沙弥香の回想はその多くの典型を思い起こさせる。つまり、裕福な私立女子校の背景、親密だが親密すぎない愛情表現(ネクタイを直したり、ごはんを食べさせあったり)、とりわけ貞節を保ったまま、激情に根ざしたロマンチックな枠組み。そして一番重要なのはその関係からの「卒業」、またそれの意味する、一風変わった若い頃に限定された環境を越えてその関係は存在し得ないという含意。

『やがて君になる』の強調する、フィクションがいかに人々の恋愛の概念に影響するかという点を踏まえると(特に侑のストーリー・アークにみられる)、これらの比較は非常に意図的である。沙弥香は先輩の言葉を内在化する(または内面化:社会的・集団的がもつ価値・規範を自分のものとして取り入れること)。多くの読者がこれらのエピソードで伝わる考えを内在化するのと同様に。女の子は、社会規範の中の限られたきわめて特定の状況でのみ、女の子と付き合う。現実の世界ではこんなの「ありえない」といった具合に・・・だからこそ、都と理子(訳注:通称みやりこ)の登場がすごく画期的なのだ。

都と理子には二重の役割がある。作中(in-text)と間テクスト(metatexual)レベルの両方である。作中では、2人は沙弥香にとってメンターであり、女性同士の恋愛がエス式のような制限下のパラメータ外でも存在するという証明だ。都と理子はクィアでいることから卒業せず、「ただの気の迷い」でもなかった。彼女たちは沙弥香にとってこの肯定の意味があり、それを視聴者にも届けている。

多くの百合作品(特に現在英語版が出ているもの)は高校生や若い主人公を中心に描いているため、その中で大人のクィアカップルの表象が登場することはまれである。多くの欧米のYA(ヤングアダルト)文学においても同様のことが言えるー10代のクィアの主人公は毎年増えているが、彼らのロールモデルとなる大人のクィアの登場は、比較的まだまだ足りていない。

若年層のクィアが消費するフィクションで彼ら自身が認知されていると感じる表象を見つけることは大事だが、健全でハッピーな恋愛関係にある大人のクィアカップルを見ることも等しく大事なことで、それは言うなれば、将来像といえるだろうか。こういうことはありえるんだ、という証明である。

都と話したことで沙弥香にもその影響があきらかに見られる。都と出会っただけで、自分だけじゃないと分かり、自分の存在が(そのままでいいと)認められたと感じる。さらに都が、本当に、率直に「彼女だよ」と宣言したことで恥じる必要はないのだと気付く。都は賢いアドバイスをしただけでなく、団結感を与えたのだ。あのホモフォビックな先輩にフラれてから内在化してしまった、沙弥香自身を否定する考えに代わる(肯定する)考え方も教えた。

都と理子は残りの話数でゲスト扱いで登場するので、彼女たちの日常が垣間見れるのは嬉しい。2人のやりとりは他の熟年カップルと変わらない。お互いを気にかけ、支えあって、ちょっかいを出し、考えられる限りこの上なく穏やかにごくふつうに生活している。フィクションではなかなか見かけない光景で、新鮮だ。

都と理子の存在は、侑と燈子の複雑で混沌とした関係とのバランスもとっていて、つまり、改めていうと、希望のある将来像を見せている。侑、燈子、沙弥香は妙な転換期を経験していることを強調して、彼女たちにも現状を解決できる日がくると視聴者に示してくれている。

『やがて君になる』は、何層にもなる、複雑で欠点のあるキャラたちを通したさまざまなクィア経験を表象している。もし、クィアなキャラが沙弥香だけだったとしたら、抑圧した好意を抱えながら悲しくも親友に執着するクィアだったとしたら、彼女はもっとネガティブなお約束の展開に陥り、同性愛キャラにありがちな問題児のように描写されていただろう。

しかし彼女は多数登場するクィアキャラの1人にすぎず、そのいずれも独特な性格で、さまざまなことを経験する。それはクエスチョニング(セクシャリティが定まっていない)で試している段階の侑から、パートナーと幸せにやっている都まで、広範な観点(full spectrum)におよぶ。全ての表象と同様、バラエティに富むことは人生の醍醐味であり、『やがて君になる』がそれほど重要である理由の1つは、登場するクィアキャラの幅広さと彼ら・彼女らが経験する物語を見せていることにある。

クィアであることを知る術は1つだけではないことを描き、視聴者が共感する多様なキャラたち、それぞれのエピソードを見せている。あなたが侑に共感しないなら、沙弥香にはもっと共感するかもしれないし、理子に自己投影しているかもしれない。

しかも、普段ならクィアキャラの描写に漂うありがちで陳腐な展開を意図的に整理し、批評する時間を割いている。中盤での沙弥香回で「ただの気の迷い」や「エス」にひきずられたありがちな描写をきっぱりと拒絶し、それらの有害さを示すだけでなく、ポジティブな別の描写も示している。

沙弥香のストーリーは悲しみからスタートするが、助言やポジティブなロールモデルのおかげで自身をもっと受け入れられるようになった ― 燈子への気持ちをもっと肯定するようになり(とはいえアニメの最後で片想いは解消されないままだが)、元カノと、傷つけられた別れの言葉をはねのけられるまでになった。作中のキャラのストーリー・アークの意味、さらに間テクスト的解説の意味の両方で、『やがて君になる』は報われるストーリーである。

(*2)抜粋大意:主に中高生の女子が思春期に経験する深く親密な友情にフォーカスするというかなり日本特有のメディア。貞節は守られながらも激しい感情をともなう女子同士の関係は大人になるつれて解消され、異性に向けられるようになる。Class S is a genre quite specific to Japanese media, focusing on young women (mostly middle- and high-schoolers) having deep, intimate friendships during adolescence. This genre stems from the idea that young people redirect the emotional energy that would normally manifest as romantic interest towards friendship. It also comes with the expectation that these relationships will end when the girls transition to adulthood. 
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