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深夜アニメとジェンダー論

  最近、大学の講義でジェンダー論、フェミニズムについて学んだ。そこで、私はアニメとフェミニズムの歪な関係性について考えを巡らせずにはいられなかった。そこで、今回は私が考えるアニメにおけるジェンダー意識の欠如とその問題点について一部を指摘したい。

アニメとジェンダーの現状ー『宇崎ちゃん』の件ー

 まず、日本におけるジェンダー意識の欠如は、アニメや漫画などのポップカルチャーだけに留まらず、化粧品広告や他の多くの商品のポスターやCMなどメディア全般の問題として語られる。だが、特にアニメや漫画に対するバッシングは酷く、先刻の『宇崎ちゃんは遊びたい』赤十字社ポスターの件など欧米各国や国内のフェミニストたちによって「萌えコンテンツは日本の恥」と言わんばかりにバッシングを受けることが多々ある。
 私はこれには一定の蓋然性があると考える。たしかに日本のアニメ・漫画事情は決してジェンダー意識に対し成熟しているとは言い難い。『宇崎ちゃん』の一件に関しては、あの批判は行き過ぎだと考えるが、それ以外の件で目に余る事情は枚挙に暇がない。

ジェンダー意識の欠如ー具体例ー

 例えば、これは特定のアニメにはあえて言及しないが、日常系アニメ作品の6,7話あたりに出てくる通称「水着回」だ。アニメが社会的影響力を持ち始め、いまや決して深夜にひっそりと見るものでなくなったのだから、このような典型的な女性性の強調は排除されていくべきだろう。また、アニメに出てくる女性が極端に自身の胸の大きさを気にして、大きいことを恥ずかしがり、小さいことにコンプレックスを抱く。これはセクハラの助長以外の何者でもない。ラッキースケベだって、最近は陳腐化したものの、誰にとってラッキーなのかを考えればこの表現がアウトかどうかは明白だろう。このような、紋切り型のアウトな表現はテンプレ系の深夜アニメにおいて、作品の本筋とは関係なく作品の販売促進のフックとして”お約束”のごとく多用されている。

”お約束”の悪弊

 そもそも、こういった作品の本筋とは無関係な”お約束”的な表現は、アニメという媒体の表現が秘める可能性を狭める危険性がある。なぜならば、”お約束”というのは言わば”思考停止”そのものだからだ。思考停止し、”お約束”に縛られた表現ばかりをしていては、革新的な作品はおろか、TVアニメそのものが前例を踏襲し続ける表現の縮小生産に陥りかねない。
 このように、アニメの無意味かつ過度な女性性の強調描写は、ジェンダー意識の欠如によりアニメをサブカルチャーに押し留め、かつアニメ表現の可能性をも抑圧してしまう危険性のある”表現の敵”であると私は考える。よくアンチフェミニズム・ミソジニー的価値観を持つ一部のオタクは、アニメ表現の過度な女性性の強調に対する批判に対し「表現の自由を抑制する」だとかいい、批判を封殺しようとするが、これは日本アニメの将来にとって有害だ。

結論

 しかし、『宇崎ちゃん』の件のようにアニメ表現に全く親しみのない部外者がアニメ表現を誤って捉え、差別的に批判をする場面が多いこともたしかだ。だからこそ、我々アニメを愛するオタクたちが、個々別にセーフ・アウトを論じていかなければならない。そうすることで、我々はアニメの更なる大衆化に対峙しアニメ表現の可能性を守っていくことができるのだと信じる。
 ここまで、長い文章を最後まで読んで頂いた方には感謝をしたい。この文章に関する諸々の批判や指摘は喜んで受け止めたい。コメントやシェアなどよろしくお願いいたします。

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