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努力を続ける必要はありますか?

コロナに罹ってしまい、まるで1週間が消し飛んでしまったかのような感覚の内田です。

生産的なことは何もせず、ただドラクエ11のプレー時間だけが虚しくも増えていく日々でした。
元気が無いと、本を読んだり有益な動画や音声を見聞きしたいという気持ちにすらなれませんね。甘えですかね。

僕は38.7度の熱と喉の腫れと鼻水と頭痛がありました。
妻は少し鼻水が出て、娘は少しコホコホ咳をする程度で元気そうです。
無症状とは言わないまでも、コロナには罹っていながらも症状は軽度だったのでしょう。インフルエンサーの時もそうでしたが、いつも僕だけ症状重いんですよね(笑)

最近頭に浮かぶことは、「努力や成長はし続けなければいけないのか」という問いです。

「そりゃもちろん良いことなんだからYESでしょ!」と言ってしまえば話は簡単。
ですが、それが本当に充実感や幸福感に繋がっているのか、ちょっと疑問なんです。もちろん全部じゃないですよ。

僕自身、大抵のことは70点でいいと思っていて。
70点ならある程度の価値が発揮できていて、その上で到達するのはそんなに大変じゃない。

例えば、90点を1つ取るなら、同じ努力量で70点を2つか3つ取れる。
100点1つなら70点は3つか4つ取れる。
個人的には、70点を複数取った方がトータルで価値高いと思います。

例えば風呂掃除にしても、浴槽をスポンジでざっと擦って、あとは気になるところの汚れを落として終わりにすれば、10分で終わる。これが70点。

でも、「来週新しい入居者が来ますので」レベルで徹底的に綺麗にしようとしたらそりゃもう大変です。
あれこれ機材は必要だし、専門的な知識も労力も必要。
それでもやっと95点くらいでしょう。

需要が供給を教育する、みたいな話もある気がしてます。

お客様主義とか、クレーマーとか、そういうある意味「取りこぼさない」対応は美しさもあるけれど、厳し過ぎる制約や行き過ぎたサービスにもなり得る。

それが、70点ではなく100点(少なくとも95点)を強制するのかもしれません。

本当は、どこまでのことが必要なんでしょうね。

何の制約もなかったとしたら、どんな方向に進んで行きたいと思いますか?

これは個々人の価値観にも依るかもしれませんが、僕はニュアンスとして"強制"や"無理してる感"を感じるような"努力"はしたくないなと思います。

例えば子どもの成長原理として、「できなかったことができた!」ことによりドーパミンが出て、次の挑戦に進める、という話があります。

これって努力でしょうか?

僕の感覚では、「楽しみながら挑戦してる」だけで、どこにも"強制"や"無理してる感"を感じません。

僕は、他者からは努力に見えるかもしれないことであっても、こんな風に物事と関わっていきたいと思っています。

努力的なことには色々な種類があると思っていて、それを簡易的なマトリクスにしてみました。

理想的なアクションマトリクス

縦軸は成長か現状維持か。
横軸は楽しさ・充実感か悪いストレスか。

現状維持x悪いストレス(左下):やらされ仕事、我慢
現状維持x楽しさ・充実感(右下):受け身系の遊び(これは誰の目にも努力には映らないでしょう)
成長x悪いストレス(左上):試験勉強などの一時的な努力
成長x楽しさ・充実感(右上):能動的でクリエイティブ

怖いのは、(右下以外)全て“努力“と表現できてしまうことです。
左下を繰り返すのはむしろマイナスになるのに、努力を全面的に肯定してしまうことで悲劇が止まらない。
左上を続けていては、休息がない。無理が過ぎるかもしれない。

子どもの成長の例でも見たように、理想的なのは右上だと思います。必ずしも成長しなくてもいいとも思うので、行動としては右側を選び続けたい。

そして、それは可能だと思うんです。子どもだけでなく大人も。

一つメッセージとして残しておきたいことは、努力に関しては自分視点で生きていくべきだ、ということです。

「需要がそう求めてるから」
「頑張ってることを認めてもらいたい」
「100点を取らなければいけないという強迫観念がある」

こうしたことを起点にした行動は、安心感には繋がるのかもしれませんが、僕の感覚では本当に自分が望む喜びには繋がらない気がします。

その上で、過度な努力は自分に圧にもなるし、他のもっと味わうべき経験を疎かにしてしまいます。

言葉しか知りませんが、「脱成長」という言葉が少し気になってます。

自分にとって、本当に豊かな人生って、どんなものでしょうね?


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