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『ニュー・アース』省察⑩ ‐ 親子に真の愛をもたらすために

第四章 エゴはさまざまな顔でいつの間にか私たちのそばにいる (其の2)

次に、親子の間のエゴについての考察が始まります。
著者のエックハルト・トールさんは親子関係で苦しんだ過去をお持ちだからか、この部分はことのほか筆が乗っているように感じられました。

まず大きな命題として、親が親という機能に自分を同一化して役割になりきってしまうことなく、親として必要な機能を充分に果たすことが出来るか、という投げかけがされています。

ここでは親として必要な機能として、
・子供の必要性を満たすこと
・危険な目にあわないようにすること
・ときには命令すること
が含まれている、とされていますが、子供を持った多くの大人が、親という機能に自分のアイデンティティを同一化させてしまい、親として果たすべき機能を超え、子供との関わりにおいて自分を見失ってしまうということが指摘されています。

つまり、
・子供の必要性を満たすことをやり過ぎて、甘やかしてダメにする。
・子供を危険から守ることが行き過ぎて過保護となり、子供の探検や試行錯誤を邪魔してしまう。
・子供に必要な命令をすることが、威圧的な支配に変わってしまう。
ということです。

親であることがアイデンティティとなってしまうと、子供が成長しその機能が必要なくなった後も、無意識レベルでそのアイデンティティに引きずられることになります。
大人になった子供が親の支配欲を満たせなくなると、今度は子供の生き方を批判したり、罪悪感を抱かせようとしたり…。

このような親は、子供を通じて、自分を完璧にしたい、自分自身の欠落を埋めたいという無意識の衝動に駆られています。
表面的には子供のことを想っていると本人が信じていても、無意識のうちにエゴが巧みに入り込んでいるのです。

子供として、このような経験をされている方は大勢いらっしゃるのではないでしょうか。
また、親として、このような行為をしてしまったと気づいている方も、多くいらっしゃるかもしれません。

親は、どうしたらよいか。
ここまで何度も述べている通り、気づくしかないのです。
気づくことが、変化への最大の触媒です。

ここから、子供の側ができることについて記述されていきます。
まず、たとえそんな親のもとで育ったとしても、親にそんなエゴの存在を指摘してはいけない、と。
そんなことをしては、むしろ親のエゴが防御態勢を取り、親はますます無意識に逃げ込んでいくから。
子供は、親の中のエゴを認識し、そのエゴと親を区別すればいいのです。
抵抗せず、いちいち反応せず、個人的に受け止めず、なるほど親はそう思うのかと穏やかに受け止めればいい。
抵抗が無ければ、長い間続いてきたエゴであっても、奇跡のように一瞬にして消えることもある、と。

それと同時に、子供の側でも無意識に、親は子供を認めるべき、ありのままの子供を受け入れるべきという固定観念、期待、エゴが発動していることに気づく必要があります。
親がそうできないのであれば、それは残念ながら親の意識レベルがそこに到達していないからです。
親が自分を理解して承認してくれなければ、自分は幸せになれないか?
本当に?

そしてさらに、子供が自分自身を否定する頭の中の声には、実は内面化した親の声が混じっていないかどうかにも、気をつける必要があります。
くすぶっている自分への批判や非難は、過去に親から植え付けられた古い思考ではないか、と。

いずれにせよ子供の側も、気づきによって「いまに在る」ことが可能となり、浮かんでくる思考にいちいち振り回されずに済むようになるのです。

ここで再度、親の視点に戻ります。
まず、子供に”生きる場”を与えることが、親としての重要な機能だと述べられています。
それは、子供がなんの苦しみも経験しないように守ってあげることではありません。
全ての人間はいつか過ちを犯すものだし、何らかの形で苦しみも経験するもの。

苦しみの多くはエゴから発生しますが、その苦しみが人間に深みをもたらし、逆に苦しみの原因に気づいてエゴを突き崩す原動力になります。
「私は苦しむべきではない」という思考があるとすれば、それはエゴによって生み出された勘違いであって、その抵抗がさらに苦しみを生み出します。

逆説的ですが、意識的に苦しみを受け入れた後でないと、その苦しみを変容させて意識を向上させ、エゴを焼き尽くすことは出来ません。
そのプロセスを実現させるためにも、苦しみに対して抵抗し続けることなく、意識的に受け入れていくことはとても重要なのです。

では、親はどうあれば良いのか。
忙しい現代の家庭生活の中、エゴの罠に陥っている人々は、行動を積み重ねていくことによっていつか完全な状態に行き着くことが出来るはずと思っています。
ですがそれらは「いまに在る」に根差していないため、結果として無駄な行動のなかで自分を見失ってしまう。
親として、子供のためと思い、どんなに正しく最善な行動を尽くしても、「いまに在る」ことを無視しては絶対に充分とはなり得ないわけです。

著者は、行動や評価と関係ない、”形のない関心”を子供に注ぐことが鍵、と説きます。

子供を見つめ、話を聞いてやり、触れ合い、あれこれを手伝ってやるときにはその瞬間以外は何も望まず、決して上の空にならず、穏やかに、静かに、完全にいまこのときだけを意識していること。
そうすれば、「いまに在る」ことが可能になる。

『人間の次元』のみでは、親は無意識でも子供に優越感を抱き、子供は無意識でも親に劣等感を抱きがちです。
その『人間の次元』での親の愛は、まだ条件づきで、独占欲がからみ、波があります。
形を超えた『「大いなる存在」の次元』でようやく、親子が対等の存在となり得ます。
つまり、親が自分自身の中に形のない次元を発見し、その「大いなる存在」を子供の中にも認められたとき、親子関係に真の愛情が生まれ、子供の中にある真の愛への欲求が満たされます。

そして、この認め認められた二人を通して『「大いなる存在」の次元』がこの世界に導き入れられるというのは、親子だけではなくすべての人間関係に当てはまるし、ひいては神との間に認識される一元性にも通じ、それはこの世界を救い出す愛である、と結ばれています。

…最後のところ、親子の話がいきなり壮大な愛の話になり、消化するにはもう少し時間と労力が必要のようです。
エックハルト・トールさん、軽やかです…。

≪巻頭写真:Photo by Natalya Zaritskaya on Unsplash≫

長年の公私に渡る不調和を正面から受け入れ、それを越える決意をし、様々な探究を実践。縁を得て、不調和の原因となる人間のマインドを紐解き解放していく内観法を会得。人がどこで躓くのか、何を勘違いしてしまうのかを共に見出すとともに、叡智に満ちた重要なメッセージを共有する活動をしています。