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第四話/獅子の心臓②【ペンドラゴンの騎士】

二章/暁のたてがみ


 その夜、ウェールズのとある森に一人の青年が迷い込んだ。月明かりが雲に遮られた状態で、小さな洋灯を頼りに不気味な森の中を彷徨う彼は、先ほどから同じ道をフラフラと回り続けている。

 時折肩口まで伸びた赤金色の髪をさらりと揺らし、首を傾げる。ランプの光に反射する装飾、オリエンタルの顔立ち。木々の間から見える彼の姿は、一見すれば異邦の妖精のようにも見えるだろう。だが、赤い制服と腕に掲げられた竜の紋章は、彼の正体を明らかにしていた。

 彼の名はアサド。雄々しき獅子の名を冠した青年。そして、ペンドラゴン十三騎士団所属、テンビー騎士団の一員である。

「……おっかしぃなぁ」

 時折地図を広げては、こう呟くのだ。つい先ほどまで、地図通りに進んでいたはずなのに。目の前に広がるのは、古い羊皮紙に記されている道とは似ても似つかない森の中。

 ひゅうひゅうと鳴く鳥の声が、実に不気味だ。おっかなびっくり周囲を見渡し、彼は任務に出る前のことを思い出す。

「お前はすぐにフラフラと迷う。絶対に十ヤード歩くごとに必ず地図を確認するんだ。いいな?」

 騎士団支部を出る前、同期の騎士・ダニエルに口酸っぱく言われたのを思い出す。神経質そうな眉間に深い深い皺を作って言う彼の姿を思い出すと申し訳なさが身を引き締めさせる。

 彼が心配するのも無理もない。驚くことに、アサドは既に十二件の迷子の前科を持っているのだ。外でふと気を抜くと、脚が無意識のうちに道を外れ、気がつけば見知らぬ場所に立っている。一度、「獣の本能かも」と誤魔化してみたことはあったが、ものの見事に友人の逆鱗に触れ「そんなことがあるか」と怒鳴られたこともある。それはそうだ。本当にアサドに獣の本能が備わっているのなら、帰巣本能が働くはずである。

 今回の発端は、テンビー騎士団にやってきた簡単なお使い。隣町の騎士団にて派生した、武器の不足物資を運ぶというものだった。馬車を使えばいいものの、偶然にもテンビー騎士団に所属のものは全て出払っており使えない。徒歩で往復一日もかからない距離だから誰かが行けばいいという話なのだが、最悪なことに今日暇を持て余していたのはアサドだけだった。

 アサドには、凄まじい前科がある。そんな彼にお使いを頼むだなんて、正気ではないと小さな揉め事すら起きたが、最近始まった戦争の影響で、単独で行動できる戦力と機動力をを持った騎士はアサドしかいない。他は非戦闘要員か任務を外すことのできない守護騎士ばかり。必然的に彼の元へとお鉢が回ってきたのだ。憂うべきは、人手不足だろう。

「ははは、今回のは少々まずいな。暗い暗い」

 なんせ、先ほどこの周辺では雨が降った。普段、迷子になったとしても周囲の匂いでなんとか状況を乗り越えているアサドだが、周囲を泥の匂いで塗り替えられては為す術もない。それに未だ月が望めない曇り空、加えて何故か磁石の通じない環境だ。

「あはは。駄目だこりゃ」

 アサドは仕方なく、湿った木の幹に寄りかかり野宿の準備を始めた。念のためにと持たされた火起こし道具が役に立った。火さえおこせれば森の動物たちが近寄ってくることはない。それに運がよければ誰かに見つけてもらえるかも知れない。

 かりかりとマッチを擦る。以前はライターを持ち歩いていたが、アサドの握力で何度も握りつぶしていた。「どうにか壊れないものを見つけるから、今はこれで我慢してくれ」と申し訳なさげにマッチ箱を差し出す友人の顔を、火起こしの度に思い出す。

 三本目でやっと火のついたマッチ棒を、手持ちの乾いた薪に写していると、遠くで小さな人のざわめきが聞こえた。無意識のうちに息を止め、明かりと気配を消す。アサドは深い森の行く先を見つめ、ざわめきの正体をたぐり寄せた。

 声は低い声で、人数は十数人ほど。どこか鉄臭い。

 鉄? 鉄砲か。

 狩人だろうか。彼らに手を借りれば、正しい道まで戻れるかも知れない。喜びも束の間、アサドはある違和感に気づき首を傾げる。

 何故火薬の匂いがしないのだろうか。

 生活のための狩に魔術が使われることは殆ど無い。対魔力を持たない自然界の動物たちに対して魔術は極めて有効な殺傷方法だが、肉や革の状態を悪くする。騎士学校の教授曰く、魚を石油の中に沈めるようなものだとか。故に現在では鉛玉を放つ猟銃の類いが主流だ。

 だが待て。そもそも磁石の効かない夜の森で、狩猟を行うのか?

 森を知り尽くした熟練の狩人でも、そのような蛮勇に及ぶことがあるのだろうか。

 罠猟であっても、昼に設置し翌朝回収するのが一般的だろう。

 ひやりと背中に悪寒が走った。そもそもおかしい。少なくとも命あっての物種だ。賢明な猟師はこの魔窟のような森での狩猟を避けるだろう。徐々違和感を感じ始める。そして電流のような一声が、アサドの神経を震わせた。

 悲鳴だ。甲高く、恐らく女性と思われる。

 アサドは消えたマッチ棒をポケットに押し込み、走り出した。間違いなく、彼女のものと思われる声は、鉄の匂いの方角から聞こえてくる。そして十中八九、あのざわめきの主達の仕業だろう。

 騎士として、一人でも多くの命を助けなければ。

 アサドは咆哮した。滑らかな褐色の喉の奥から出たそれは、人間のものではない。獅子の雄叫びだった。瞬間彼の黄金色の髪はたてがみへと変わり、すらりとした手足は猛々しい獣のそれと変化する。

 獣の病『獣生病リョダリ(獅子)型』。生まれつき彼の体に宿る、獅子の魂である。

 滑らかな毛並みに包まれた四肢は、筋肉をしなやかに伸縮させ、漆黒の森を駆ける。雄々しき獅子の鼓動は、どくどくと脈打ち、体の内の焦りをせり上がらせる。

 彼の希う望みは一つ。

 どうか、無事であってくれ。

 不意に雲が開けた。閉ざされていた月光が暗黒に降り注ぎ、アサドの行く先を照らす。すると、木々の向こうに、黒い鉄柵が見えてきた。館だ。どこか時代錯誤な、ルネサンス様式の古めかしい館。視認できるようになると、おぼろげだった声もハッキリと聞こえてきた。

「嫌! 助けて!」

「ああどうか、命だけは、命だけはお助けください!」

 地面を蹴る足に、力が入った。本能のまま咆哮し、力任せに開きかけた柵へと体当たりする。途端に、物音におびき寄せられた賊らしき人影が現れる。

「し、獅子だわ!」

 絶望か、希望か。震える声を甲高く、一人の女性は言った。

「いいや違う。騎士団だ! こんな巨大な怪物がこの森に居るか!」

 そう言って一人の男が手を振り上げた。指先に水滴が集まり、徐々に肥大化していく。アサドは奥歯を噛む。ただでさえ秋口の冷え込む夜だ。変化した上で水を浴びれば急激に体温が下がり体力が奪われる。

 膨れ上がった水塊が、アサドに向かって放たれた。幸い、律儀に一直線に向かってきたお陰で、ひらりと躱すことができた。魔術師の男は顔を歪め、もう一度水塊を作ろうと試みる。だが、アサドの体当たりによって庭の低木の中へと飛んでいった。

「ひ、ひぃ……畜生このデカブツ猫が!」

 もう一人の女も魔術の気配を見せたが、彼女もまた低木の中へと身を投げる羽目になった。アサドは変化を解き、近くにあった麻縄で、魔術師達を縛り上げる。魔術が使えないよう、首元に制御麻酔(対魔術師用に製造された、一時的に魔術を行使できなくしたり体に力が入れられなくするための薬品。騎士団などの公務員や医師にのみ販売される。継続的な使用は命に関わるため注意が必要)を打つと、屋敷の中へと向かう。

「あれ、さっきの女の人……逃げちゃったかな」

 ともあれ、彼女を害そうとしていた人々は捕縛することができた。だが、先ほどの悲鳴から、追われる身のものは一人ではないはず。そう結論づけると手についた埃を払い、アサドは生存者を探すため、屋敷の中へと進む。

 皮膚を引き裂かんばかりの緊張の中、こつり、こつりと歩みを進める。先ほどの物音が聞こえているはずだ。彼等が攻撃を仕掛けてくるのも時間の問題だろう。建物中に血の臭いが充満した今、こそこそと各個撃破を狙うより、一気に片付けてしまった方が手っ取り早い。アサド自身も、その戦法の方が慣れている。

 かちり、と引き金を引く音がした。同時に、空気を裂く魔力弾がアサドめがけて直進する。

 ホイートストン・バレッド。機械騎士団(マシナリー)製の魔力式銃だ。一体、どこから入手したのかと頭をよぎったが、馴染みある得物なら、対処法は理解している。

 アサドは近くにあった家具を掴み、盾代わりに弾を受け止める。家具ははじけ飛んだが、弾は貫通せず消滅した。

 ホイートストン・バレッドは、今はなき銃メーカー・ブラッドベリ社魔力式銃の後継機種として、二年ほど前に騎士団が開発・発表したものだ。その実態は使用者の魔力を銃身内に内蔵した魔術式で弾丸化し発射するもの。オリジナルより精度は劣るものの、再装填を必要としない機動性がウリだ。魔力は言わば、人間の体内で製造されるエネルギーの塊であり実体はない。故に、被弾した際の威力は銃弾並だが、弾がまず貫通することはあり得ない。

 どうやら彼等はこの常識を理解できていなかったようで、壊れた家具の破片を握りこちらを睨むアサドに顔を引きつらせていた。

「当たると消えるの知らないってことは……あ、素人だね」

「野郎共、やっちまえ!」

 首領らしき男の号令と共に、一斉に魔力弾が発射される。アサドは銃弾を躱し防ぎを繰り返しながら、手当たり次第に制御麻酔を打ち込んでいく。まるで大道芸人のような身軽さに、敵方は誰一人ついていくことができない。終いには、相打ちを恐れて発砲すら止める始末だ。

 この惨状を作り上げたというのに、先頭経験があるようには見えない。
 アサドは首をかしげながら、淡々と全員を縛り上げると、近くにあった鍵付きの部屋に閉じ込めた。麻酔の効果はおよそ半日。それだけあれば、成すべきこと全てに手がつけられるだろう。

 アサドは一息つくと、今一度館の後継を目の当たりにした。静まり帰り、もう人の気配はしない。床や壁に赤い血糊がついており、その脇には使用人らしき黒い服装の若者が何人も倒れている。その誰もが既に息絶えていた。抵抗する暇も無く、魔力弾により体中が打ち抜かれていたのだ。

「……もう少し、早く気づければ」

 彼らを救えたかも知れない。そんなことを考えながら、残りの生存者を探すため館の中を歩き回る。古めかしいが、随分と立派な屋敷だ。様式の古さから、恐らく長く続く貴族の家系だと思われるが、ここ周辺に居城を構える者の情報を知らない。

 書斎に向かえば、何かしらの情報は見つかるだろうか。

 それらしき扉を開けてみると、書斎の机に一人の男が着いていた。年配の男性で年齢は五十代半ばで紳士的な服装をしている。恐らく、この屋敷の主人だろう。

 胸に花のような血痕を咲かせ、窓から差し込む風に、キコキコと椅子ごと揺られている。彼もまた、手遅れだったようだ。僅かに空いた瞼をゆっくりと閉じさせ、独り言のように囁いた。

「ごめんなさい。少し、机を見せて貰いますね」

 そっと机の引き出し空けるも、特に何かが見つかった訳では無い。諦めて引き出しを閉じると、部屋の何処かで、カチリと音がした。

 入り口から入って、右手の本棚。

 アサドの聴覚は、音の発生源をはっきりと耳にしていた。近づくと不自然に一つ本が飛び出ている。どうやらこれは、本では無い。本型のケースだ。

「鍵?」

 中には一本の鍵が入っている。古びているが、丁寧に使われて居たのがよくわかる。使用跡も見つかった。

 一体どこの鍵なのか。

 一つだけ思い当たった。一階の奥の、古びた扉。

 急いで駈け寄り、鍵穴を指す。すると、扉の向こうで、錠が開く音がした。

 中を覗くも薄暗く、どうにも気味が悪い。どこからか滴る水の音だけが、不気味にこだましていた。

「うわぁ」

 アサドはじめじめとした湿度の高い場所が、どうしても苦手だった。だが、生存者がいるかも知れない。その一心で歩みを進める決心をした。

 明かりが照らす先は、先の見えない螺旋階段。ゴクリとつばを飲み。一歩一歩降り始めた。螺旋状のそれは、思ったより短く作られているようで、直ぐに平坦な下階へとたどり着く。

「これは、」

 明かりが照らすのは、檻だった。一本の道を挟むように、両脇に幾つもの檻が並ぶ。昔、ロンドン塔での研修で、似たような風景を見たのを思い出した。

「不気味だなぁ」

 思わず、一人言を呟いた。すると遠くで小さな物音が聞こえた。砂の転がるような、微かな音。こんな地下では風の影響ということはないだろう。

「誰か居るのか!」

 思わず叫び、走り出す。すると、奥の折の一角で、小さな人影が、顔を出した。床まで伸びる長髪に、艶やかな褐色の肌。そして布と紐だけで作った、簡素と言うには心もとなさすぎる衣服。幼さとその格好のせいか、少女に見えなくもないが、時折聞こえる小さな悲鳴から、彼が少年であることが解った。

「ああ、よかった。生存者だ。無事で、」

『嫌だ!』

 突如、叫び声が聞こえた。鼓膜を通した声ではなく、脳髄に直接ぶつけられたように感じる。魔術……のようであるが、これは違う。獣の体には毒であるはずの魔力の気配を微塵も感じなかったのだ。

「うおわっ、今の何……っ」

『怖い、誰、来ないで』

 必死に叫ぶ、幼い声。

 そうか、とアサドは思い出す。かつてアカデミーで学んだ数々の言葉から、最も彼に相応しいもの導き出した。

 アガルクトニ。

 獣の病の一種。食人衝動と他者の感覚へと干渉することができる能力をもつ者の総称だ。彼らは皆、魅力的な顔立ちをしているという定義も、彼に当てはまる。

 檻の中、粗末な格好、怯える姿。全てに納得が行った。怯えるのも当然だ。

 アサドはゆっくりとひざまづき、彼の元に視線を合わせる。

「ああ……そうか。怖がらせてしまって申し訳なかった。ねえ、君の話を聞きたいのだけど、いいかな」

 少年は未だ、怯えたままだ。何度か声をかけるも、彼は首をかしげるだけだ。アガルクトニといえど、口頭での言語認識に関しては、知識を兼ね備えていないと不可能らしい。

「ああ、解った言葉か。知らない言葉は怖いよなぁ。英語が駄目なら中国語は……駄目か。じゃあドイツ、フランス、ギリシャ……あと僕ができるのは、アラビア語だ」

 ピクリと、少年の肩が動いた気がした。覚えていた黒檀の瞳に、僅かに光が入るのが見て取れる。どうやら、アラビア語に反応したらしい。張り詰めていたアサドの心臓が、僅かに緩む。

「よかった。これなら通じるか。えぇと、その。俺、こんな格好しているけど、怪しい者じゃないんだ。誓って、君に危害を加えるつもりはない」

「誰」

 小さく、少年は言った。長らく、声を発する機会がなかったのだろう。乾燥し掠れ、三ヤード程離れたアサドにかろうじて聞こえる程の大きさだ。

 アサドは拳を胸に当て、敬礼の姿勢を取った。

「僕は英国守護機関ペンドラゴン十三騎士団、前衛騎士アサドだよ。といってもわかりにくいかぁ。そうだな、英国のため正義のため、戦う者だと思ってくれればいいよ」

「エイコク? セイギ? なに、それ」

「おっと、そこも説明するべきか。まず英国というものはねぇ」

 アサドがピンと人差し指を立てた、その時だった。

「おい! 地下から何か聞こえるぞ!」

「皮を剥いで売り飛ばしてやる」

 突如、階段の上から何者かの声がした。残念ながら、他の騎士団や生存者の類いではなさそうだ。先ほどの盗賊達だろうか。

「うっわぁ、どうしよう。見つかったぽいなぁ」

 この地下室は出入り口が一つしか無い袋小路。獅子に変身できるアサドであっても、大勢の魔術師に詰め寄られればひとたまりもない。

 ここは、先手必勝ととるべきか。少々手荒になってもやるしかない。

「君、どうかほんの少しだけ、我慢してくれるかな」

「……我慢? え、あ」

 瞬間、アサドの影が変化した。少年がぽっかりと口を開ける間に、そこにいた青年は、黄金色の獅子へと姿を変えたのだ。

 獅子はひとつ、優しく唸る。

「さ、背中に乗って」

 少年は、生まれて初めて目の当たりにする獅子に、すっかり腰を抜かしていた。恐怖も確かに生まれていたが、それ以上に突如現れた美しい存在に目を奪われていたのだ。洋灯の明かりに照らされる鬣に、薄暗い地下室でもわかる整った筋肉。高揚に包まれた体は、もう彼自身の言うことを聞かない。

 気がつけば、少年は獅子に手を伸ばしていた。砂埃に汚れた手が、滑らかな体毛に触れる。与えられた服や毛布よりも肌触りのいい触感に思わず感嘆の声を漏らす。

「きれいだ」

「あはは、少し恥ずかしいや。乗れる?」

 少年は頷くと、その背によじ登った。見た目以上の座り心地に、思わず目を輝かせながら鬣に顔を埋める。

 こんなの、初めてだ。

「じゃあ少年、しっかり捕まって!」

「う、うわ……っ」

 アサドの声と同時に、疾風が少年の体を包んだ。まるでつむじ風にでもなったかのような感覚は、彼に生まれて初めての爽快を与えた。

 背中越しに少年の歓喜を感じ取ったアサドは、無意識に顔を緩ませる。

「おい、いたぞ! あの獅子だ……ぐおっ」

 階段の中腹で待ち構えていた盗賊を跳ね飛ばし、黄金の獅子は駆け上がる。迫り来る攻撃を次々と躱し、屋敷の外へと目指した。

「ようし、もう少しで外だ」

「……!」

 外では既に東から太陽が覗きはじめ、クリーム色の陽が視界中に広がっていた。少年は数年ぶりに見た太陽に息を吞む。

 なんとか脱出できたが、アサドにはまだ問題があった。彼はこの先、どこに向かえばいいのか分からないのだ。獅子の体をもつくせに野生の勘が全くもって働かないだなんて。おもわず、情けない笑いをこぼす。

「どうして、動かないの……?」

「ああ、その。帰る場所が分からなくって。へへ」

「どんなところ」

 アサドは自分のいた館について説明する。絵の具箱の中身のような色とりどりの町並み、白い砂浜の入り江、愛らしい旗を掲げる小舟たち。そして、上品なねずみ色の屋敷。

「これが僕のいる街なんだけど」

「……多分あっち」

 少年は西の方角を指さした。小さな爪の指す方角と少年。アサドはそれを交互に見ながら素っ頓狂な声を上げる。

「ほ、本当に?」

「うん。見えたから、多分」

「す、すごいやぁ」

 アガルクトニは、食人欲求を代償に感覚器官が発達する病である。先ほどのような聴覚への干渉以外にも、千里眼に似た高い視力を有することもあった。彼もまた、それを持ち合わせているのだろう。

「ようし! じゃあ、行こう。しっかり捕まっていて」

 少年が頷くと、獅子は再び駆ける。冷たい朝焼けの空気を纏い、黄金色の体を更に輝かせて。

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