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30年前に戻る

書きたいことが多すぎる。
しかも、それぞれが巨大すぎる。
一口サイズに切り分けないと。

何でもかんでも書き散らせばいいというものでもなく、何を書かないかこそが重要な気がする。
つい膨らみがちな話を削って、形を整え推敲する。
それが文章を書くことの大部分かも。
その手間が面倒臭くてサボっているのが実情。

選曲において、何を選ぶか以上に何を選ばないかが肝要なのと似ている。
実際、その番組用の選曲で手一杯ではある。
いや正確に言うと、何かを書いて考えをまとめる苦労より、慣れた音楽に淫している方が楽だから。


30年という時間は重い。
14歳だった少年は、生きていれば当たり前だが44歳になる。
これからさらにもう30年を生きられるか考えると、その年月はより重量を増す。

何が言いたいかというと、30年前に夢中になっていた音楽を最近またようやく聴けるようになってきたのだ。
しつこいようだが30年の時を超えて。


具体的に書くとNirvana。
一時期聴き過ぎたせいか、このバンドはおろか歪ませたギターが少しでも入っている曲は身体が受け付けなくなっていた。
それに、カート・コベインのあの焼けつくような声が痛々しくて、辛くて聴けなかった。
そんな極端な変身を経て、なぜか今また戻ってきている。
人は常に変化し続ける生き物だと思っている。元に戻るのもその変容の一種なのだろう。
誰にとっても恥ずかしさがあるはずの青春時代を受け入れる余裕が出てきたのか。
それとも、最初に触れたものに固執する「三つ子の魂百まで」か。
Nirvanaのライヴ史上最高とも言われる『Live at Redding』を観た。1992年8月30日の出演。
このバンドからずっと長く離れていた期間に、ライヴ盤として発売されていて映像も公式で観ることができる。
いやはや。
今の自分は少しでも凡庸と感じた曲はすぐ止めてしまうのだけど、最後まで興奮しっぱなしだった。
好奇心の赴くまま、それなりに洗練されて落ち着いた音楽にも接してきたつもりだったけど、最も影響を受けたバンドの一つは間違いなくNirvanaだし、自分の根っこはここにあると認めるまではできるようになった。


Pearl Jamの新作も良かった。
このバンドが偉いのは、生き延びてまだ活動していること。Pearl Jamについて語るたびに言うようにしている。
だって、みんな若くして死んでいったからなぁ。
カート・コベインも、レイン・ステイリー(Alice in Chains)も、クリス・コーネル(Soundgarden)も…。
Pearl Jamもしばらく聴けていなかった。少なくともここ18年ぐらいは。
でも新譜『Dark Matter』を聴いてみたら結構良かった。
たったそれだけのことなのに、この感情を逐一伝えようとすると、どれだけ言葉を費やしても難しいかもしれない。
今日はもうそうする時間もないけれど、なにせ中学2年生の時から全身全霊をかけて聴いていたバンドだったから。
そこは汲み取ってほしい。
ヴォーカルのエディ・ヴェダーも今年60歳。
彼は正直で、もう活動する必要はないけど単純にしたいから続けている、みたいなことを語っていた。
Pearl Jamも私も、30年分だけ歳を取った。でもまだ生きている。

見方次第では、人の一生も一瞬だなと。
しかし音楽は人の寿命よりも長く続いてきた。これからも続いていくだろう。
人が生きていくうえでの煩雑なこととはほぼ関係なく、ポピュラー音楽も他の芸術と同じように日々改まっていく。1960年代のように劇的ではないかもしれないけれど、少しずつ塗り替えられ続けている。
自分が生きている間の刹那、音楽のほんの一部分を聴けるだけ。
だから、たまたまかもしれない、あるいは必然だったかもしれないけれど、自分が出会って熱中した音楽を大事にしても、そう罰は当たらないだろう。
Nirvanaを耳にしても、何も感じない人もたくさんいる中で、自分は魂が震えてしまったのだから。

そういう原点を大切にする人のみが、(その人にとっての)新しいものを探索できるのかもしれない。


30年前に戻る。今の自分が始まった地点に。でも今はそのときと同じではない。

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